ガスパーレ・スポンティーニ
ガスパーレ(またはガスパレ)・ルイジ・パチフィコ・スポンティーニ(Gaspare Luigi Pacifico Spontini, 1774年11月14日 – 1851年1月24日)は、イタリア出身のオペラ作曲家・指揮者。アンコーナ地方のマイオラーティ(現在のマイオラーティ・スポンティーニ)出身。19世紀の最初の20年間は、フランス第一帝政におけるオペラ・セリアの最重要人物として活躍。グルックの古典的なトラジェディ・リリックの理念を、当時のメロドラマに対する趣味や、より壮大な光景、豊かなオーケストラの音色、特徴的な言語表現に組み合わされた旋律の創意になじませようと努力した。『ヴェスタの巫女』(La Vestale )は、スポンティーニの最高傑作にして成功作である。
若くしてナポリの音楽学校に学び、1803年にパリに行き、1805年にフランス帝国宮廷作曲家に任命される。1807年にジョゼフィーヌ皇后に励まされて『ヴェスタの巫女』を作曲。パリ・オペラ座での初演によって、当代きってのイタリア人作曲家として名声を確立。この作品は、同世代のケルビーニやマイアベーアから傑作と認められ、年少のベルリオーズやワーグナーからも崇拝された。また、1809年にはナポレオンに気に入られ、コルテスのアステカ征服史に題材をとった壮大な『フェルナンド・コルテス』を作曲した。この作品では史実通りに16頭の馬を舞台に登場させるなど、オペラの舞台構成を大規模化させた。
同じく評価の高い『オリンピア』(Olimpie, 1819年作曲、改訂1820年および1826年)は冷遇されたため、王政復古後のフランスを去ってプロイセンに行き、ベルリンで宮廷楽長ならびにフォルクスオーパーの指揮者として活動を始めた。しかし、時代は『魔弾の射手』に代表されるドイツ・ナショナリズム勃興の時期であり、スポンティーニのオペラ・セリアは次第に時代遅れになっていった。
基本情報 | |
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出生名 | Gaspare Luigi Pacifico Spontini |
生誕 |
1774年11月14日 教皇領 マイオラーティ |
死没 |
教皇領 マイオラーティ |
1851年1月24日(76歳没)
ジャンル | オペラ |
職業 | 作曲家、指揮者 |
反応