コンスタンチン・ロコソフスキー

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ロコソフスキー(ロシア語: Константин Константинович Рокоссовский、ポーランド語: Konstanty Rokossowski、1896年12月21日 – 1968年8月3日)は、ソ連、ポーランドの軍人、政治家。ソ連邦元帥、ポーランド元帥。ソ連邦英雄(2度)。

ロシア帝国のヴェリーキエ・ルーキ市プスコフシチナ出身(現在のロシア連邦プスコフ州内)[要出典]。父親はポーランド人のシュラフタ(騎士)階級出身だったが、自身は鉄道技師だった。また、母は自身をロシア人と見なしていた。ロコソフスキーの誕生後、一家はロシア支配下(ポーランド立憲王国首都)のワルシャワに移住し、ロコソフスキーはここで育った。

1914年、第一次世界大戦が始まると、ロコソフスキーはロシア帝国軍に入隊し、第5竜騎兵連隊の下士官で終戦を迎えた。1917年にボリシェヴィキに参加し、間もなく赤軍に入隊。ロシア内戦ではアレクサンドル・コルチャークの白衛軍と戦い、赤旗勲章を授与された。内戦終結後、1925年、指揮要員完全化課程を修了。1929年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミー附属上級指揮要員完全化課程を修了。1930年から第7師団、後に第15騎兵師団を指揮し、1936年、第5騎兵軍団長、1940年11月、第9機械化軍団長に任命。1937年から発生した赤軍の大粛清時、ロコソフスキーも一時逮捕されたが、彼の才能を惜しんだゲオルギー・ジューコフの個人的嘆願により釈放された。

独ソ戦時、機械化軍団長として、西ウクライナのブロドゥイ地区で戦った。1941年11月から西部戦線の第16軍を指揮。1942年7月、ブリャンスク戦線司令官に任命され、トゥーラとヴォロネジ方面を担当した。同年9月からドン戦線を指揮。スターリングラード攻防戦ではドイツ第6軍の逆包囲に成功し、第二次世界大戦全体の戦局を転換する勝利をもたらした。

生誕 (1896-12-21) 1896年12月21日
ロシア帝国
ワルシャワ
死没 1968年8月3日(1968-08-03)(71歳)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
所属組織 ロシア帝国陸軍
赤軍
軍歴 1914年 – 1932年、1940年 – 1962年
最終階級 ソ連邦元帥
ポーランド元帥
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