コンスタンティン・パッツ
コンスタンティン・パッツ(エストニア語: Konstantin Päts、エストニア語発音: [ˈkonsˈtɑnʲˑˈtinˑ ˈpætʲsˑ]、1874年2月21日(旧暦2月11日) – 1956年1月18日)は、エストニアの政治家、革命家。エストニア共和国初代大統領。
戦間期のエストニアで最も大きな影響力を発揮した政治家であった。自ら新聞『テタージャ』を主宰し、新聞界と政界を舞台にヤーン・トニッソンと40年間にわたって対立した。1905年のロシア第一革命に関与して死刑の宣告を受けるがスイスおよびフィンランドに亡命して執筆活動を続けた。その後、死刑の一部が恩赦されたためエストニアに戻ったが、1910年から1911年までの間収監された。
1917年にはエストニア自治政府の知事に就任したが、十月革命によって潜伏を余儀なくされる。1918年2月19日、パッツはエストニア救世委員会を構成する三人のうちの一人となる。委員会は24日にエストニア独立宣言を発布し、パッツはエストニア臨時政府の首相(1918-1919)とされたがエストニアはドイツによって占領され、パッツは投獄される。臨時政府では内務大臣(1918)、陸軍大臣(1918-1919)も兼務してエストニア人による近代的軍隊の編成に注力し、エストニア独立戦争の準備に専念していた。
1920年代から1930年代前半にかけて、パッツは当時の主要政党の中で最も右寄りの「農民集会」を率いたが、1932年には「小作人移民同盟」と合流した。パッツは国会(リーギコグ)の議長を務めたほか、5回(1921-1922, 1923-1924, 1931-1932, 1932-1933, 1933-1934)にわたって国老の地位にあった。1934年の任期中、右翼ポピュリズムの政治結社ヴァプス運動(独立戦争退役者同盟)を無力化するため、陸軍と議会の支持を得てクーデターを成功させた。パッツのもと、エストニアは実質的な権威主義体制に移行した。
コンスタンティン・パッツ Konstantin Päts |
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コンスタンティン・パッツ(1934年)
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エストニア共和国
臨時政府首相 |
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任期 | 1918年2月24日 – 1919年5月8日 |
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後任者 |
オットー・アウグスト・ストランドマン (首相) |
エストニア共和国
国老 |
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任期 |
1921年1月25日 – 1922年11月21日 1923年8月2日 – 1924年5月26日 1931年2月12日 – 1932年2月19日 1932年11月1日 – 1933年5月18日 1933年10月22日 – 1934年1月24日 |
前任者 | アンツ・ピープ |
エストニア共和国
国老兼首相 |
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任期 | 1934年1月24日 – 1937年9月3日 |
エストニア共和国
摂政大統領 |
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任期 | 1937年9月3日 – 1938年5月9日 |
後任者 |
ケーレル・インパル(首相) |
エストニア共和国
初代大統領 |
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任期 | 1938年4月24日 – 1940年6月21日 |
首相 | ケーレル・インパル ユール・ウルオツ ヨハネス・バレス |
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出生 |
ロシア帝国 リヴォニア県タフコランナ郡 |
1874年2月23日
死去 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、カリーニン州ブラシェヴォ |
1956年1月18日(81歳没)
政党 | 農村国民連合(1917–1920) 農民集会(1920–1932) 小作人移民同盟(1932–1935) 愛国連盟(1935–1940) |
配偶者 | ヘルマ・アイダ・エミリー・ピディー |
反応