ジョセフ・グルー

ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 – 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使。日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後日本国内に抑留され、日本の外交官との交換により帰国(1942年6月)。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。吉田茂は、グルーは「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価した他方、グルーの日本理解には限界があった、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方もある

グルーは、マサチューセッツ州ボストン市西部のバックベイ (Back Bay)地区に、エドワード・スタージスおよびアニー・クロフォード・グルーの四番目の子として生まれた。2人の兄(ヘンリーおよびランドルフ)と姉(エレノア)がいた。グルー家は祖先がイギリスから渡米したボストンの名門で、貿易・綿取り引き業・金融業などで財をなし、同じく名門のパークマン家やスタージス家などとつながっていた。

1892年秋、人格・指導力・社会奉仕の精神の育成を目指す全寮制のグロトン校に入学した。同校卒業後、ボストンの由緒ある家庭の男子が通常進学したハーバード大学に入学した。入学後は、大学新聞『クリムゾン』の編集員として活躍すると共に、スポーツにも熱心であった。最も熱を入れたのが、「フライ・クラブ(Fly Club)」であった。グルーは後に「クラブでの活動と社交が自分にとっての大学生活のハイライトであった」と述べている。第32代大統領のフランクリン・D・ルーズベルトはグロトンとハーバードでグルーの2年後輩であったが、両人が当時親しく交流していたという記録はない。

グルー家は、植民地時代初期にイギリスからマサチューセッツに移住した「ピューリタン」(カルヴァン主義の流れを汲む会衆派・長老派)とは異なる、より自由主義的な監督派(エピスコパル)に属していたが、勤勉・責任・奉仕など、ニューイングランドに流れる倫理観を培われ、生涯を通じてそれを保った。グルーは幼少時に猩紅熱にかかり、片耳難聴になった。このことは外交官の経歴を全うするうえでハンディキャップとなった。大学卒業後、1902年6月から18ヶ月の世界旅行に出た。中国(アモイ)で虎を狩猟するなどの体験の後、日本経由で帰国した。

ジョセフ・クラーク・グルー
Joseph Clark Grew
生誕 (1880-05-27) 1880年5月27日
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州ボストン
死没 (1965-05-25) 1965年5月25日(84歳没)
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州マンチェスター・バイ・ザ・シー
職業 駐日アメリカ合衆国大使
国務長官代理

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