ジョーン・クロフォード

ジョーン・クロフォード

ジョーン・クロフォード(英: Joan Crawford、1904年頃3月23日[注釈 2] – 1977年5月10日)はアメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ出身の女優。映画、舞台、テレビで活躍した。

ブロードウェイのコーラスガールとして舞台に出演するまでは、アメリカ各地を巡業する演劇一座のダンサーだった。1925年に映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)と映画出演の契約を結び、クロフォードの本格的な女優人生が始まっている。当初のクロフォードに割り当てられた役柄は端役で、つまらない役が多かったためにクロフォードは苛立ちをつのらせていたが、徐々に自身を売り込むことに成功し始め、1920年代の終わりには流行の最先端をいくフラッパーを代表する女優として世界的に有名になった。1930年代になると、クロフォードの人気は当時のMGMの看板スターであるノーマ・シアラーやグレタ・ガルボと並び賞されるようになった。クロフォードは、最終的に恋や成功を勝ち取る勤勉な若い女性を演じる機会が多かった。このような「シンデレラ・ストーリー」的な作品は、世界恐慌のさなかにあった当時の大衆、とくに女性層に大きく受け入れられた。クロフォードはハリウッドでももっとも有名な女優の一人となり、出演料も女優の中で最高額を受け取るまでになった。しかしながら徐々に作品の興行成績は落ち込みを見せはじめ、1930年代の終わりには出演料のわりに興行成績に貢献しない女優 (Box Office Poison) というレッテルをはられてしまう。しかしながら、女優としてのキャリアは1940年代前半から再び上昇し始めた。そして1945年に主演した『ミルドレッド・ピアース』で、クロフォードはアカデミー主演女優賞を獲得したのである。

1955年にクロフォードはペプシコ社の社長アルフレッド・スティールと4度目の結婚をし、社長夫人としてペプシコ社での実権を持つようになった。1959年に夫スティールが死去すると、クロフォードは取締役会から推挙されて、1973年まで役員としてペプシコ社に籍を置いていた。スティールとの結婚中もクロフォードは映画やテレビで女優を続けていたが、スティールとの死別後の1960年代は女優としての活動量はどんどん減っていった。そして1970年のイギリスのホラー映画『地底の原始人・キングゴリラ (Trog)』への出演を最後に、クロフォードは映画界から引退した。1974年に老いで衰えたクロフォードの容貌があからさまに写しだされた写真が公開されると、クロフォードは人前に出ることを完全に避けるようになり、1977年に死去するまで隠棲生活を送った。

クロフォードは4回にわたって結婚している。最初の3回は離婚で、最後に結婚したアルフレッド・スティールとは死別だった。クロフォードには5人の養子がいるが、そのうちの1人は生みの親のもとに戻っている。残った4人の養子のうち、年長のクリスティーナ (Christina Crawford)とクリストファーのクロフォードとの関係はとげとげしいものだった。クロフォードはこの二人の遺産相続権を剥奪し、クロフォードの死後にクリスティーナは暴露本『親愛なるマミー―ジョーン・クロフォードの虚像と実像 (Mommie Dearest)』を出版している。この本にはクロフォードが子供たちに対して肉体的、精神的に虐待を繰り返していたと断言されている。

クロフォードは、アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門で、第10位にランクされている。

ジョージ・ハレルが1936年に撮影したクロフォードの宣材写真
本名 Lucille Fay LeSueur
生年月日 (1904-03-23) 1904年3月23日
没年月日 (1977-05-10) 1977年5月10日(73歳没)
出生地 アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業 女優
ジャンル 映画
活動期間 1923年 – 1974年
配偶者 ダグラス・フェアバンクスJr.(1929年 – 1933年)
フランチョット・トーン(1935年 – 1939年)
フィリップ・テリー(1942年 – 1946年)
アルフレッド・スティール(1956年 – 1959年)
著名な家族 クリスティーナ(養女)
クリストファー(養子)
シンシア(養女)
キャサリン(養女)
主な作品
『グランド・ホテル』
『ミルドレッド・ピアース』
『大砂塵』
『何がジェーンに起ったか?』
備考
ベティ・デイヴィス
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