ジョー・スタンカ

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ジョー・ドナルド・スタンカ(Joe Donald Stanka, 1931年7月23日 – 2018年10月15日)は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手(投手)。

オクラホマ州生まれ。オクラホマ農工大学(現在のオクラホマ州立大学)を経て、1950年にブルックリン・ドジャースと契約。大学ではバスケットボール選手だったという。長いマイナーリーグ生活を経て、1959年9月2日にシカゴ・ホワイトソックスでMLB初登板を果たし、その3日後の9月5日にも登板し、MLB通算2試合で1勝を挙げた。この頃、当時副大統領のリチャード・ニクソンはホワイトソックスの選手一同を招き、夕食を共にしたが、その時にスタンカを目ざとく見付け、「ハロー、ジョー。君が先週ホワイトソックスに上がったスタンカ君だね」とニコニコしながら語り掛け、当時の監督も「ニクソン氏ほど(野球に)詳しい人は珍しい」と知人に語ったほどで、スタンカも喜びの色を隠せなかったという逸話が残っている

1960年、前年の日本シリーズで読売ジャイアンツを4連勝で破り日本一に輝いた監督の鶴岡一人が、連覇に向けエース杉浦忠の負担を軽くするために、第2の投手の柱を熱望して、3月12日に南海ホークスに入団。日本のプロ球団に3Aクラスの外国人投手が加入したのはスタンカが初で、当時の日本野球の技術レベルならば即20勝前後の働きが可能と判断しての獲得だった。尚、この獲得の裏には、当時南海の唯一の外国人投手だった、ジョン・サディナがスタンカ獲得を鶴岡に進言した事もあったと言われている。来日して記者会見を開いたとき、記者達は一様にその巨体に「大きい」と感嘆の声を挙げた。それを聞いたスタンカは、オクラホマ人を指す「オーキー」というスラングと勘違いし、「日本でも自分がオクラホマ出身だということはそんなに有名なのか」と錯覚したという

来日1年目から先発で活躍し、「赤鬼」の異名を取った。1961年の日本シリーズ第4戦では、1点リードの9回裏に杉浦忠をリリーフして登板。2死までこぎ着けたが、その後一塁の寺田陽介がフライを落球、三塁の小池兼司がゴロをファンブルするというエラーが重なり、満塁となる。ここで打席に入った宮本敏雄をカウント2ストライク1ボールと追いつめ、自信を持って投げ込んだ投球を円城寺満球審は「ボール」と判定した。野村克也は後年に「『文句なしにストライク、ゲームセット』と思って私はスタンカに駆け寄ろうとしたら円城寺審判は何と『ボール』と判定」、センターで守っていた大沢啓二も「ど真ん中よ。今度こそ勝ったと思ったね。ところが円城寺球審の判定はボール」と述べており、スタンカは円城寺に詰め寄った。ベンチからも全員が飛び出して「なんでボールや、ストライクやろ。」とまくしたてたが円城寺は「普通ならストライクになるボールだが、風があったので早く沈んだ。それでボールと判断した。」と説明した。野村によると「こんなわけのわからない説明で納得できるわけがない。このほかにも南海に不利な判定が何度もあった」という。試合再開後、次の球を宮本に痛打されてサヨナラ負けを喫する。この時、スタンカはバックアップに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた。この敗戦が影響して(ただし第5戦は勝利)、南海は日本シリーズに敗れる。同試合を見ていた商社マンが「円城寺 あれがボールか 秋の空」という川柳を色紙に認め、実業家に転身していたスタンカに贈った。その色紙は後年になってもスタンカの事務所に飾られていたという。また、後年テレビ番組の夫人を伴ったインタビューで、野村が「僕が早く腰を浮かせたから円城寺球審の死角になったのではないか。あれは僕のミスだった。」というコメントを見た際には「彼とバッテリーを組んでいたことを誇りに思う」と賛辞を送っている。野村は著書の中で「のちに円城寺氏は審判を辞めたが、それはあの球がストライクだったと事実上認めたからではないかと私は思っている」と著書に記している

ジョー・スタンカ
Joe Stanka
ベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』第16巻第10号(1961)より
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 オクラホマ州ハーモン郡
生年月日 (1931-07-23) 1931年7月23日
没年月日 (2018-10-15) 2018年10月15日(87歳没)
身長
体重
196 cm
96 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 MLB / 1959年9月2日
NPB / 1960年4月13日
最終出場 MLB / 1959年9月5日
NPB / 1966年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • オクラホマ農工大学
  • シカゴ・ホワイトソックス (1959)
  • 南海ホークス (1960 – 1965)
  • 大洋ホエールズ (1966)

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