ジーノ・バルタリ

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1935年にプロ選手となったバルタリは、その年のイタリア国内選手権を制覇。また同年のジロ・デ・イタリアでは山岳賞も受賞するが、ジロではこのあと通算7回の受賞を経験。さらにこの記録は今もなおジロ史上同賞最多受賞記録となっている。翌1936年、ジロでは総合優勝並びに山岳賞を制覇し、ジロ・ディ・ロンバルディアも優勝。1937年にはジロの総合連覇並びに山岳賞3年連続受賞、さらに2度目のイタリア国内選手権制覇も飾る。また同年のツール・ド・フランスにおいて区間1勝を挙げるも、その後の区間で落車した上に大怪我を負いリタイアしている。

1938年、イタリア国内におけるファシストの圧力が強さを増したことから、バルタリは拠点をパリに移す。そしてこの年、ツール初優勝を飾る。ピレネー超えステージを終えた段階で総合2位につけたバルタリは、第14ステージにおいて中盤のアロ峠で一気にトップに立つとヴァル峠、イゾアール峠もトップで通過しそのまま押し切るという圧勝を演じる。また、このステージでマイヨジョーヌを奪ったが、何と総合2位に18分近い差をつけて早くもこの時点で総合優勝をほぼ確定づけてしまった。また、ツールでは初となる山岳賞も受賞している。

しかし翌1939年、第二次世界大戦の影が忍び寄ってきたこともあってイタリアチームのツール・ド・フランス参加は見送られることになり、バルタリの連覇は自動的に潰えた。ちなみにこの年、ジロ・ディ・ロンバルディアとミラノ~サンレモを制覇している。1940年、ジロ・ディ・ロンバルディアとミラノ~サンレモのダブル連覇を達成した他、3度目の国内選手権優勝も果たしている。だが、バルタリは自転車選手としてのキャリアは一旦ここで途切れることとなる。

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