チャールズ・E・ラフリン
チャールズ・エリオット・ラフリン(Charles Elliott Loughlin, 1910年2月19日-1989年10月31日)[注釈 1]は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は少将。
潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の艦長として4度の哨戒を行う。35年の海軍歴の中で海軍十字章とレジオン・オブ・メリットを2度ずつ、シルバースターを1度受章した。しかし、ラフリンの経歴の中で最も知られているのは1945年4月1日に緑十字船阿波丸(日本郵船、11,249トン)を撃沈し軍法会議にかけられた「阿波丸事件」である。
チャールズ・エリオット・ラフリンは1910年2月10日にノースカロライナ州ウィルミントンで生まれる。海軍兵学校(アナポリス)に進んだラフリンはテニスとバスケットボールに才能を示してそれぞれのチームに所属し、特にバスケットボールの分野においては1932年から1933年のシーズン、1933年度全米大学体育協会(NCAA)選抜チームのメンバーに名を連ねた。1933年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1933年組」と呼称されたこの世代からは、アーチャーフィッシュ (USS Archer-fish, SS-311) 艦長として空母信濃を撃沈したジョゼフ・F・エンライト、ハリバット (USS Halibut, SS-232) 艦長を経て大将に登りつめたイグナティス・J・ギャランティンなどがいる。卒業後は戦艦ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-4) に配属され、のちに「原子力海軍の父」と称されるようになる、機関長ハイマン・G・リッコーヴァー中尉(アナポリス1922年組)のサポート役を務める。1938年、ラフリンは潜水艦畑に進んでコネチカット州ニューロンドンの潜水学校に入り、さまざまな潜水艦に乗り組んだあとS-14 (USS S-14, SS-119) 艦長としてパナマ海域、カリブ海および西大西洋における防衛的な哨戒にあたり、1942年中に4度の哨戒を行った。地味な日々であったが評価され、のちにクイーンフィッシュとして命名される潜水艦のキール据え付け段階から艦長に内定し、S-14の乗組員から未来のクイーンフィッシュの乗組員を優先的に選抜した。
チャールズ・エリオット・ラフリン
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渾名 | エリオット |
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生誕 |
1910年2月19日 ノースカロライナ州 ウィルミントン |
死没 | 1989年19月31日(79歳没) |
所属組織 | アメリカ海軍 |
軍歴 | 1933 – 1968 |
最終階級 | 海軍少将 |
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