ハンス・ヨアヒム・マルセイユ
ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイユ(Hans-Joachim “Jochen” Walter Rudolf Siegfried Marseille、1919年12月13日 – 1942年9月30日)は、第二次世界大戦のアフリカ戦線で活躍したドイツ空軍のエース・パイロット。“アフリカの星”(Stern von Afrika)の通称で知られる。撃墜した158機は全て西側連合軍機である。乗機メッサーシュミットBf109F-4/Trop には英軍冬季攻勢(1941年 – 1942年)以降「黄色の14」(第3中隊の14号機の意味)が書き込まれていた。最終階級は大尉。
1919年、ヴァイマル共和政下のベルリンに生まれる。父ジークフリート(Siegfried Georg Martin Marseille)は第一次世界大戦に従軍したドイツ陸軍大尉で、陸軍を辞めてベルリン警察に入ったが、1933年に陸軍に復帰、後に少将に昇進し、第二次世界大戦中は東部戦線で従軍したが、1944年1月にスターリングラードで戦死している。マルセイユ家は、17世紀末ルイ14世が発したフォンテーヌブローの勅令による迫害から逃れてドイツへ亡命した、フランス人ユグノー(新教徒)の末裔である。同じく姓がフランス系である空軍中将のアドルフ・ガーランドも同様の難民の末裔だった。マルセイユの両親は彼が子供のときに離婚し、母シャルロッテ(Charlotte Marie Johanna Pauline Gertrud Marseille)がロイター(Reuter)という警官と再婚したため、学校時代は義父ロイターの姓を名乗っていたが、大人になってからマルセイユの姓に戻した。
1938年11月にドイツ空軍へ入隊し、士官候補生としてクヴェードリンブルクで軍事基礎訓練を受け、1939年3月1日に戦闘飛行学校へ配属された。同級生には、地中海戦域でマルセイユに次ぐ撃墜数を記録したヴェルナー・シュレーアがいた。シュレーアは、マルセイユがしょっちゅう軍紀違反を起こしたと伝えている。そのためマルセイユは、級友が週末の休暇を貰うとき基地への居残りを命じられたが、しばしばそれを無視した。マルセイユは1940年7月18日に傑出した評価でウィーンの第5戦闘機搭乗員学校を卒業し、メルゼブルク戦闘機搭乗員訓練飛行隊に配属され、第二次世界大戦の勃発からフランスの降伏までロイナ化学工場の防空任務に当たった。同年8月10日、マルセイユはカレーに基地を置く第2教導航空団へ転属となり、バトル・オブ・ブリテンでイギリス上空の実戦に参加するようになって、ここでも飛行隊長ヘルベルト・イーレフェルト(de:Herbert Ihlefeld)大尉から傑出した評価を受けた。
渾名 | ヨッヘン(同僚から)、アフリカの星 |
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生誕 |
1919年12月13日 ドイツ ベルリン |
死没 |
エジプト エル・アラメイン近郊 |
1942年9月30日(22歳没)
所属組織 | ドイツ空軍 |
軍歴 | 1938–1942 |
最終階級 | 大尉 |
署名 |
反応