パトリック・ベリンジャー
パトリック・ネルソン(ニーソン)・リンチ・ベリンジャー(Patrick Nelson/Nieson Lynch Bellinger [注釈 1]、1885年10月8日-1962年5月30日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は中将。
アメリカ海軍航空隊における初期のパイロットの一人で、海軍パイロット第8号。大西洋横断飛行総指揮官を務めたほか、初めて対空砲火を受けたアメリカ人パイロットとして記録されている。第二次世界大戦には哨戒航空隊司令官、合衆国艦隊のスタッフなどとして臨んだ。1941年12月8日の真珠湾攻撃の際「真珠湾空襲さる。これは演習ではない(Air raid. Pearl Harbor – this is no drill.)」と緊急放送したのはベリンジャーであった。
1885年10月8日にサウスカロライナ州チェローに生まれた。海軍兵学校(アナポリス)に進み、1907年に卒業。卒業年次から「アナポリス1907年組」と呼称されたこの世代の同期にはレイモンド・スプルーアンスがいる[注釈 2]。ベリンジャーはアナポリス卒業後、戦艦「バーモント」に配属され、グレート・ホワイト・フリートの世界一周航海に参加する。サンフランシスコ停泊中の1908年5月12日に戦艦「ウィスコンシン」に転属となり、候補生としての2年間を経たのち、1909年6月7日に少尉に任官する。1909年5月から10月までは防護巡洋艦「モンゴメリー」、1909年10月から1912年4月までは戦艦「サウスカロライナ」乗組みとなり、1912年4月19日付で大西洋潜水部隊に転じる。潜水母艦「セヴァーン」配属を経て9月までは潜水艦C-4艦長を務める。ここまでは潜水艦畑を進んでいたベリンジャーであったが、1912年11月になってアナポリスにおいて航空に転科する。
1913年1月、ベリンジャーは航空訓練が行われているグァンタナモ湾に向かい、一定の訓練を3月16日まで行ったのち「サウスカロライナ」に戻ったが、これがアメリカ艦隊の冬季演習で初めて航空機が参加した事例となり、航空機に潜水艦や敷設機雷を発見するのに効果があることを証明した。6月13日にはカーチス水上飛行機を駆って6,200フィートの高度を飛ぶ当時の最高記録を樹立した。翌1914年、ベリンジャーはベラクルス戦役に戦艦「ミシシッピ」を母艦とする水上機部隊の一員として戦闘に参加する。この戦闘でベリンジャーは初めて交戦国の上空を飛行し、弾丸1発が機体に当たったが無事に帰還した。これが、アメリカ軍の航空機が敵と交戦した最初となり、名誉勲章受章のための推薦を受けたが、選に漏れて受章はならなかった。ベラクルスから帰還後の7月から12月まで、ベリンジャーは装甲巡洋艦「ノースカロライナ」で航空訓練任務を務め、1915年1月にはフロリダ州ペンサコーラの海軍飛行学校に赴任。そして、1915年1月21日付で正式に海軍パイロット第8号として認定された。以降は海軍飛行学校と「ノースカロライナ」での任務を繰り返し、1917年5月9日には水上飛行機によって海軍最初の夜間飛行を成功させた。
パトリック・ベリンジャー
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生誕 |
1885年10月8日 サウスカロライナ州 チェロー |
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死没 |
バージニア州 クリフトンフォージュ |
1962年5月30日(76歳没)
所属組織 | アメリカ海軍 |
軍歴 | 1907 – 1947 |
最終階級 | 海軍中将 |
反応