パーヴェル・ルィチャゴフ
パーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ルィチャゴフ(ロシア語: Павел Васильевич Рычагов、1911年1月2日 – 1941年10月28日)は、ソ連の軍人。ソ連邦英雄。スペイン内戦や日中戦争、冬戦争で活躍したエースパイロットで赤色空軍司令官にまでのぼりつめるも、スターリンを公然と批判したことで失脚、大祖国戦争の折に粛清された。
完全に予想外だった。彼は顔を赤らめて憤慨し、それからは絶望的な沈黙が訪れた。スターリンを目と鼻の先で怒鳴る彼を止めるすべなどなかった。スターリンは航空機のために最大限の努力と研究を費やしていたし、それに関連する問題も理解していた。
この発言は明らかにスターリンに対するルィチャゴフの私的な侮辱であった。スターリンは立ち止まり、黙ったままだった。皆は次に起こる事を待っていた。スターリンはその後、先程と同じ方向に歩き出し、テーブルから去って行った。そして、出口へ行った後、無言で席に戻り、口からパイプを離すと、声を荒げる事無く、ゆっくりと静かに言った。
ロシア帝国モスクワ県ニジニエ・リホボルィの農家出身。幼少期は取り立てて目立つ事はなかったが、ラウンダーズや凧が好きな活発な少年だったという。中学卒業後、工員として働いていたが、1928年に赤軍に入隊。1930年のレニングラード軍事技術学校卒業を経て、1931年ボリソグレプスクの第2航空学校に入学。卒業後はキエフ軍管区ジトーミルの第36航空旅団隷下の第109中隊に配属される。
– 君がそんなことを言ってはならん!
1936年10月20日、スペイン内戦に参戦。10月28日、ルィチャゴフら25機のI-15と25人の航空兵、36名の整備士と20名の地上要員を載せた「カール・レピン号」が共和国陣地のカルタヘナに降り立った。(のちビルバオに15機増援)。11月4日、部隊はマドリード上空にてユンカースJu 522機およびフィアット CR.322機を撃墜、一方の部隊の損害は0だった。以降11月中旬までに総計12機を撃墜する成果を上げた。
そして、スターリンはもう一度部屋から出た。しかし再び出口まで来ると引き返し、部屋を歩き回った。そして最初と同じ場所に戻り、再び同じようにゆっくりと穏やかな口調で言った。:
しかし勝利も束の間、16日、ルィチャゴフ自身の乗機が撃墜され、以降20日までの間に部隊の航空機の大部分が撃破や鹵獲されるという苦境に陥るも、戦闘機30機など本国からの大規模な増援で一転攻勢、以降終戦までに総計40機もの敵機を撃墜した。帰国したルィチャゴフは一躍英雄となり、12月31日にソ連邦英雄およびレーニン勲章を受章、また翌年にはわずか26歳で少将となった。
– 君はそんなことを言ってはならんのだ! – と、しばらく間をおいて付け加えた: – 閉会だ。
1938年のルィチャゴフ
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生誕 |
1911年1月2日 ロシア帝国、モスクワ県モスクワ郡ニジニエ・リホボルィ |
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死没 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、クイビシェフ州クイビシェフ |
1941年10月28日(30歳没)
所属組織 | 赤色空軍 |
軍歴 | 1928年 – 1941年 |
最終階級 | 中将 |
反応