ビック・セイシャス
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ビック・セイシャス(Vic Seixas, 1923年8月30日 – )は、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の男子テニス選手。本名は Elias Victor Seixas Jr. (エリアス・ビクター・セイシャス・ジュニア)というが、愛称の「ビック」でよく知られている。主に1950年代前半に活躍した選手で、1953年のウィンブルドン選手権と1954年の全米選手権の男子シングルスで優勝した。4大大会でのダブルス優勝も多く、男子ダブルスで5勝、混合ダブルスで8勝を挙げ、総計「15」のグランドスラム・タイトルを獲得した名選手である。右利きの選手で、体格は身長185cm、体重81kgほどであった。
セイシャスのテニスは、フォアハンド・ストロークのトップスピン(順回転のボール)やバックハンド・スライス、トップスピンのロブショットなどを巧みに駆使し、長時間の試合に耐えられる強靭なスタミナを大きな武器にした。彼は比較的遅咲きタイプの選手であったが、1952年から1956年までの5年間(彼の年齢では29歳-33歳)に総計15個の4大大会タイトルを獲得した。彼のダブルスは、男子ダブルスはトニー・トラバート、混合ダブルスはドリス・ハートと組んで抜群の相性を発揮し、とりわけ混合ダブルスでは1953年-1956年のウィンブルドン4連覇、1953年-1955年の全米選手権3連覇の金字塔を打ち立てた。
セイシャスは1940年から全米選手権に出場し始めたが、当時は第2次世界大戦の戦時中であり、テニス4大大会は全米選手権だけが開催されていた。戦時中、セイシャスはアメリカ陸軍で3年間空軍パイロットの仕事をした。1940年代は全米選手権で好成績がなかったが、27歳を迎えた1950年に初めての海外遠征に出て、全仏選手権ベスト8・ウィンブルドン選手権ベスト4の成績を出した。1951年、セイシャスは初めて全米選手権の男子シングルス決勝に勝ち上がったが、当時全盛期にあったフランク・セッジマン(オーストラリア)に 4-6, 1-6, 1-6 で完敗した。この年から、彼は男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれた。
1952年の全米選手権男子ダブルスで、セイシャスはメルビン・ローズ(オーストラリア)とペアを組み、ここで初めての4大大会タイトルを獲得した。セイシャスとローズは、決勝でオーストラリアペアのフランク・セッジマン&ケン・マグレガー組を 3-6, 10-8, 10-8, 6-8, 8-6 で破り、1951年全豪選手権から続いてきたセッジマン&マグレガー組の4大大会男子ダブルス連続優勝を「7連勝」で止めた。このペアは1951年に男子ダブルス唯一の「年間グランドスラム」を達成したが、1952年全米選手権の決勝でセイシャス&ローズ組に敗れたため、2年連続の男子ダブルス年間グランドスラムを逃したことになる。セイシャスの4大大会男子ダブルスは、この初優勝だけローズと組み、それ以後は同じアメリカのトニー・トラバートと組んで4勝を挙げた。
ビック・セイシャス
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基本情報 | |
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フルネーム | Elias Victor Seixas Jr. |
愛称 | ビック (Vic) |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | 同・ペンシルベニア州フィラデルフィア |
生年月日 | 1923年8月30日(96歳) |
身長 | 185cm |
体重 | 81kg |
利き手 | 右 |
殿堂入り | 1971年 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | ベスト4(1953) |
全仏 | 準優勝(1953) |
全英 | 優勝(1953) |
全米 | 優勝(1954) |
優勝回数 | 2(英1・米1) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | 優勝(1955) |
全仏 | 優勝(1954・55) |
全英 | 準優勝(1952・54) |
全米 | 優勝(1952・54) |
優勝回数 | 5(豪1・仏2・米2) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全仏 | 優勝(1953) |
全英 | 優勝(1953-56) |
全米 | 優勝(1953-55) |
優勝回数 | 8(仏1・英4・米3) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 3位(1953年) |
反応