フェードア・フォン・ボック
モーリッツ・アルブレヒト・フランツ・フリードリヒ・フェードア・フォン・ボック(ドイツ語: Moritz Albrecht Franz Friedrich Fedor von Bock、1880年12月3日 – 1945年5月4日)は、第二次世界大戦中のドイツの軍人。最終階級は元帥。
プロイセン王国のキュストリン(現在のポーランド領コストシン・ナド・オドロン)生まれ。父カール・モーリッツは陸軍少将で、普仏戦争には師団指揮官として従軍し、セダンの戦いでの勇敢さで表彰を受けた。曽祖父はフリードリヒ大王治世下のプロイセン陸軍で勤務し、祖父は1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いに参加している。母オルガ・ヘレネ・フランツィスカはファルケンハイン男爵家の令嬢で、のちに参謀総長となるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインの姉妹だった。8歳でベルリンに移ってポツダムとリヒターフェルデで勉学に励む。現代語、数学、歴史などが得意科目で、フランス語、ロシア語、英語が堪能だった。1898年3月15日、近衛歩兵第5連隊の士官候補生となる。1905年に大隊副官に就任。1907年には連隊副官となり、1910年から1912年まで参謀教育を受け、参謀本部に配属された。第一次世界大戦には参謀将校として従軍し、1916年に少佐に昇進、1918年4月にはプロイセンの最高位のプール・ル・メリット勲章を受章。
大戦後も軍備制限されたヴァイマル共和国の陸軍に残る。第3師団参謀長を経て、1929年に少将、1931年に中将に昇進。同年2月、第II軍管区司令官に任命される。1933年に政権を握ったナチ党に対しては中立的な姿勢だった。1938年のオーストリア併合の際は第8軍司令官としてオーストリアに進駐。その年3月に遡及して上級大将に昇進した。同年11月に第1軍集団司令官に任命され、ポーランド侵攻を控えた翌8月26日に北方軍集団司令官に任命された。
カラー処理されたフォト (1939年)
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渾名 |
Holy Fire of Küstrin Der sterber |
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生誕 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ブランデンブルク州 キュストリン (現: ポーランド コストシン・ナド・オドロン) |
1880年12月3日
死没 |
1945年5月4日 ドイツ国 シュレスヴィヒ=ホルシュタイン大管区 オルデンブルク・イン・ホルシュタイン |
(64歳)
所属組織 |
ドイツ帝国陸軍[要リンク修正] (1898年 – 1918年) ヴァイマル共和国陸軍 (1918年 – 1933年) ドイツ国防軍陸軍 (1933年 – 1945年) |
軍歴 | 1898年 – 1945年 |
最終階級 | 元帥 |
署名 |
反応