フランソワ=アドリアン・ボイエルデュー
フランソワ=アドリアン・ボワエルデュー(François-Adrien Boieldieu [fʁɑ̃.swa a.dʁi.jɛ̃ bwal.djø], 1775年12月16日 – 1834年10月8日)はフランスのオペラ作曲家・ピアニスト。19世紀前半のフランス・オペラ界における重鎮作曲家の一人として活動した。優雅さと軽快さを持ち合わせた作風から、かつては「フランスのモーツァルト」と呼ばれた。ただし、実際はベートーヴェンと同世代である。
1775年12月16日、フランス北部のルーアンに生まれる。父親はルーアンの大司教の書記であった。1783年(8歳)に同地の大聖堂の少年聖歌隊に入り、歌唱法やソルフェージュを学ぶ一方で、同大聖堂のオルガニストを務めていたシャルル・ブロシュ(Charles Broche,1752 – 1803)に師事、またこの時期にパリやボローニャへ向かい、A.L.クープラン(パリ)、G.B.マルティーニ(ボローニャ)らにそれぞれ師事して、ピアノ、オルガン、作曲法などの音楽教育を受けた。鍵盤楽器奏者として認められたのち、1791年(16歳)に故郷に戻ってからはルーアンの聖アンドレ教会のオルガニストに就任、またピアニストとしても活動を開始している。1792年に作曲し、自ら初演した『ピアノ協奏曲 ヘ長調』はこの時期の作品で、彼の唯一のピアノ協奏曲でもある。
同時に作曲家としても故郷ルーアンで活動を開始し、1793年に最初のオペラ『罪ある娘』を発表・上演され、オペラ作曲家として最初の成功を収めた。この1作目となったオペラは父の台本によるものである。続けて1795年に2作目となった『ロザリーとミルザ』も上演は成功を収める。この成功後によって1796年からパリで活動の拠点を置くことにし、1797年には3つのオペラ(『スイス人の家族』、『幸福な知らせ』『賭』)を立て続けに発表・上演し、パリ・オペラ座の人気作曲家として名声を確立する。1800年以降には『ベニオフスキー』、『バグダッドの太守』、『オーロール伯母さん』などでその地位を不動のものにした。なおこの時期に楽器製造家のエラール家に迎えられ、そこではルイジ・ケルビーニやエティエンヌ・メユール、ロドルフ・クレゼール(「ロドルフ・クロイツェル」として知られる人物)、ピエール・ロードらと親交を結んだ。1798年から1803年までパリ音楽院のピアノ科の教授を務めているが、のちに1817年に復職している。
基本情報 | |
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生誕 | 1775年12月16日 |
出身地 | フランス王国 ルーアン |
死没 | 1834年10月8日(58歳没) フランス王国 パリ |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | オペラ作曲家・ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
反応