ヘルムート・フォン・パンヴィッツ
ヘルムート・フォン・パンヴィッツ (Helmuth von Pannwitz、1898年10月14日 – 1947年1月16日) は、第一次世界大戦および第二次世界大戦のドイツ軍人。騎兵科。第二次世界大戦では国防軍中将・第15SSコサック騎兵軍団長を務めた。戦後、1947年にモスクワで戦争犯罪の廉で処刑された。1996年4月に軍事検察官によって名誉回復がなされたが、2001年6月に名誉回復が取り消された。
パンヴィッツはプロイセン王国の貴族の家系で、シレジアにあった父の所領ボトザノヴィッツ (現在のポーランド領ボドザノヴィチェ) に生まれた。彼の生地は現在はポーランド領であるが、当時は独ソ国境地帯であった。彼の家系はラウジッツのパンヴィッツ村に起源を持ち、14世紀から16世紀にかけてはグラッツの城伯であった。
12歳でリークニッツ近郊ヴァールシュタットのプロイセン王国士官学校に入学し、その後リヒターフェルデの士官学校本校に移った。第一次世界大戦の勃発前であったが、彼はロシア帝国との国境の町で催されたコサックの演示に強い興味を抱いた。
士官候補生であったときに第一次世界大戦が勃発し、彼は義勇兵としてドイツ帝国陸軍第1槍騎兵連隊に配属された。当時16歳の彼は中尉に任官され、戦闘における勇敢さから同年中には2級鉄十字章を受章 (後には1級鉄十字章も受章) した。戦後すぐにドイツ義勇軍に参加し、シレジアでのポーランド分離主義者らとの抗争やカップ一揆に参加した。ブレスラウで社会民主主義者ベルンハルト・ショートレンダー(de:Bernhard Schottländer)を殺害した容疑で指名手配されたためポーランドに逃亡した。偽名を使って黒い国防軍のリーダーとなり、多数の裏切り者殺しに関与したが、キュストリン一揆が失敗すると再びポーランドに逃亡した。ハンガリーに1年潜伏した後[要出典]、1926年にポーランドに戻り、ワルシャワ近郊のムウォフフにあったラジヴィウ公爵夫人の屋敷の農場管理人として生活していた。
ヘルムート・フォン・パンヴィッツ
Helmuth von Pannwitz |
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ヘルムート・フォン・パンヴィッツ (1943年)
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渾名 |
ヨーロッパ最後の騎士 The Last Knight of Europe |
生誕 |
プロイセン王国 ボトザノヴィッツ 現在は ポーランド ボドザノヴィチェ |
1898年10月14日
死没 |
1947年1月16日 ソビエト連邦 モスクワ |
(48歳)
所属組織 |
ドイツ帝国 ドイツ国 |
軍歴 | 1914年 – 1945年 |
最終階級 | 中将/フェルトアタマン |
指揮 | 第15SSコサック騎兵軍団 |
戦闘 |
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受賞 |
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反応