ペドロ・アルモドバル・カバジェロ(Pedro Almodóvar Caballero, 1951年9月24日 – )は、スペインの映画監督・脚本家・映画プロデューサーである。
シウダー・レアル県カルサーダ・デ・カラトラーバで4人兄弟のひとりとして出生。資料によっては1949年生まれと表記される場合がある。父は字がほとんど読めず、ラバでワイン樽を運搬する仕事で一生のほとんどを過ごしたため、アルモドバルは母に依頼された地元の非常勤講師から読み書きを教わった。8歳のとき、両親から司祭になることを期待され、スペイン西部の町カセレスの寄宿学校に送られた。カセレスでは学校の近くにカルサーダにはなかった映画館があり、ここで初めて映画に触れた。後に「私が映画館から学んだものは、司祭から受けたものよりもはるかに真の教育となった」と述べている。神学校での性的虐待を描いた『バッド・エデュケーション』は、少年時代のアルモドバル自身の体験を基にした半自伝的映画である。
アルモドバルは両親の希望に反して映画監督になる夢を抱き、1967年にマドリードに移ったが、フランシスコ・フランコ・バーモンデ独裁政権によって国立映画学校が閉鎖されてしまった。路頭に迷った彼はフリーマーケットの売買で食いつなぐなどさまざまな仕事をした後、国営電話会社の職を得て12年間勤務した。ここでは午後3時に仕事が終わっていたため、アルモドバルは残りの時間を目標に費やすことができた。
2016年、カンヌ国際映画祭にて
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本名 |
Pedro Almodóvar Caballero |
生年月日 |
(1951-09-24) 1951年9月24日(67歳) |
出生地 |
スペイン、シウダー・レアル県カルサーダ・デ・カラトラーバ
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国籍 |
スペイン
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職業 |
映画監督・脚本家・映画プロデューサー
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主な作品 |
『神経衰弱ぎりぎりの女たち』 『キカ』 『オール・アバウト・マイ・マザー』 『トーク・トゥ・ハー』 『バッド・エデュケーション』 『ボルベール〈帰郷〉』 『私が、生きる肌』 |
アカデミー賞 |
外国語映画賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 脚本賞 2002年『トーク・トゥ・ハー』 |
カンヌ国際映画祭 |
監督賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 脚本賞 2006年『ボルベール〈帰郷〉』 エキュメニカル審査員賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 ユース賞 2011年『私が、生きる肌』 |
ヴェネツィア国際映画祭 |
脚本賞 1988年『神経衰弱ぎりぎりの女たち』 栄誉金獅子賞 2019年
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ヨーロッパ映画賞 |
作品賞 2006年『ボルベール〈帰郷〉』 監督賞 2002年『トーク・トゥ・ハー』 2006年『ボルベール〈帰郷〉』 脚本賞 2002年『トーク・トゥ・ハー』 観客賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2002年『トーク・トゥ・ハー』 2006年『ボルベール 〈帰郷〉』 新人監督賞 1988年『神経衰弱ぎりぎりの女たち』 世界的貢献賞 2013年 |
全米映画批評家協会賞 |
特別賞 1988年『神経衰弱ぎりぎりの女たち』『マタドール 炎のレクイエム』 |
ニューヨーク映画批評家協会賞 |
外国語映画賞 1988年『神経衰弱ぎりぎりの女たち』 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2004年『バッド・エデュケーション』 |
ロサンゼルス映画批評家協会賞 |
監督賞 2002年『トーク・トゥ・ハー』 外国語映画賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 ニュー・ジェネレーション賞 1987年
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放送映画批評家協会賞 |
外国語映画賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2009年『抱擁のかけら』 |
英国アカデミー賞 |
監督賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 オリジナル脚本賞 2002年『トーク・トゥ・ハー』 外国語作品賞 2000年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2002年『トーク・トゥ・ハー』 2011年『私が、生きる肌』 |
ゴールデングローブ賞 |
外国語映画賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2002年『トーク・トゥ・ハー』 |
ゴヤ賞 |
作品賞 1988年『神経衰弱ぎりぎりの女たち』 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2006年『ボルベール〈帰郷〉』 監督賞 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 2006年『ボルベール〈帰郷〉』 脚本賞 1988年『神経衰弱ぎりぎりの女たち』 |
セザール賞 |
外国映画賞 1992年『ハイヒール』 1999年『オール・アバウト・マイ・マザー』 EU(欧州連合)作品賞 2002年『トーク・トゥ・ハー』 名誉賞 1999年
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その他の賞 |
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