ペリー・コモ

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ペリー・コモ(英語: Perry Como、1912年5月18日 – 2001年5月12日)はアメリカ合衆国の歌手。フランク・シナトラと並ぶ大物エンターテイナーとして多くのテレビ番組、ステージで活躍した。

1912年5月18日、ペンシルベニア州キャノンズバーグでイタリア系アメリカ人の家庭にPierino Comoとして生まれた。理髪店の見習いをしていた頃に町の歌声コンクールで優勝したことがきっかけで1936年に歌手としてデビューした。当時は「歌う床屋さん」と呼ばれて親しまれた。フレディ・カーロン楽団の専属歌手としてデビューしたが,やがてテッド・ウィ―ムスの目に留まり,専属歌手となったが第2次世界大戦の余波で楽団は解散しペリーは再び理髪師に戻ったが彼の歌声に対する期待は高まりラジオのCBS放送で自身のショウを持ち1943年RCAレコードと契約した。デビュー曲は「グッド・バイ・スー」。1945年の「時の終わりまで」が初めてのミリオン・セラー。
この時期,数本の映画にも出演したが,すぐに撤退し,ラジオ,テレビをうまく活用しスターへの道を歩んだ。初期の頃の歌唱スタイルはビング・クロスビーに酷似していたが,やがて自分のスタイルを確立し,クロスビー,フランク・シナトラと並び20世紀を代表する本格派のポピュラー・シンガーとして君臨した。1950年代には,「パパはマンボがお好き」(1954)「ホット・ディギティ」(1956)のようなノベルティ・ソングを数多く録音したが,売り上げが好調であったためと思われる。彼の真価はバラードで発揮され「恋のとりこ」(1946)「魅惑の宵」(1949)「ハロー・ヤング・ラバーズ」(1951)「イフ」(1951)バート・バカラックの「マジック・モーメンツ」(1958)「夢で恋すれば」(1965)「イッツ・インポッシブル」(1970)「アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー」(1973)などのスタンダード中心のヒット曲を持ち全米ナンバー・ワンとなった歌は14曲。1953年には14年の長寿番組となる「ペリー・コモ・ショー」がスタートし、このテレビ番組は日本でも1959年12月から2年間,放送され人気を呼んだ。1967年以降は毎年のようにTVスペシャルを制作し1994年の”Irish Christmas”(1994)まで40本を数えた。公演を録画した番組の他,ハワイ,ロンドン,メキシコ,オーストリア, ニューヨーク, ハリウッド,バハマ, カナダ,パリ、など世界各地でゲストを招いて収録されファンを楽しませた。

1970年にはラスベガスのインターナショナル・ホテル(現在のヒルトン・ホテル)に6月25-27日まで出演し,その模様は”Perry Como in person at the International hotel, Las Vegas”でレコード化され大変な話題になった。

基本情報
生誕 1912年5月18日
出身地 アメリカ合衆国ペンシルベニア州キャノンズバーグ
死没 (2001-05-12) 2001年5月12日(88歳没)
職業 歌手
担当楽器
活動期間 1936年 – 1994年

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