ボグダン・フィロフ
ボグダン・ディミトロフ・フィロフ(ブルガリア語: Богдан Димитров Филов, ラテン文字転写: Bogdan Dimitrov Filov、1883年4月10日 – 1945年2月1日)は、ブルガリア王国の考古学者、美術史家、政治家。第二次世界大戦下で首相(1940年2月15日 – 1943年9月14日)を務めた。任期中にブルガリアは枢軸国へ参加した7番目の国家となった。
フィロフはスタラ・ザゴラに生まれ、帝政ドイツのライプツィヒ、フライブルク、ヴュルツブルクで教育を受けた。フライブルクでの彼の博士論文は、ライプツィヒの権威あるドイツの雑誌『クリオ』の付録として書籍が出版された。1906年5月1日より、ソフィアの国立考古学博物館で働いた。フィロフは1907年から1909年にボン、パリ、ローマで考古学と貨幣学の研究をした。ブルガリアの前古代考古学「アンティーク」の明白なリーダーであった。1918年には、黄金と鉄の人工物が豊富なペレサディスのネクロポリス、トレベニスタを発見した。1910年から1920年の間には国立考古学博物館の取締役になった。1912年、ヤンボルの近くのカビレの古代都市で最初の調査を実施した。1920年、フィロフはソフィア大学の考古学と美術史の教授になった。同年、考古学の講座が大学で設置され、フィロフがその担当教授に任命された。ソフィアの考古学協会は古代考古学に関する考古学学会へと発展した。1937年、フィロフはブルガリア科学アカデミーブルガリア科学アカデミーの会長に選ばれた。
1940年2月15日、ゲオルギ・キョセイヴァノフの辞任により、ブルガリア王国の首相に任命された。フィロフは国王(ツァール)ボリス3世の味方であった。9月7日、ブルガリアはクラヨーヴァ条約によりドブルジャ南部が与えられた。翌年2月14日にはブルガリアは枢軸国と不可侵条約を締結し、3月1日には三国同盟に参加した。ブルガリアの独立記念日である3月3日には、ドイツ軍がユーゴスラビア王国とギリシャ王国に侵攻するためにブルガリアへ進駐した。だが枢軸国とは名ばかりで、国王ボリス3世と首相フィロフの体制下では、ブルガリアができるだけ多く戦争の外にいるよう努めた。1943年8月のボリス3世の死後、新たな国王シメオン2世は幼少であったため、摂政団を設置し、新王の叔父プレスラフ公キリル王子らと共にその一員となった。
ボグダン・ディミトロフ・フィロフ Bogdan Dimitrov Filov Богдан Димитров Филов |
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ブルガリア王国 閣僚評議会議長 | |
任期 1940年2月15日 – 1943年9月14日 |
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君主 |
ボリス3世 シメオン2世 |
前任者 | ゲオルギ・キョセイヴァノフ |
後任者 | ペトル・ガブロフスキ(代行) |
個人情報 | |
生誕 |
大ブルガリア公国、東ルメリア、スタラ・ザゴラ |
1883年4月10日
死没 |
ブルガリア王国、ソフィア |
1945年2月1日(61歳没)
政党 | 無所属 |
反応