メラニー・ボニス

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メラニー・ボニあるいはボニ(Mélanie Hélène Bonis, 1858年1月21日 パリ – 1937年3月18日 サルセル)は、フランスの女性作曲家。メル・ボニ(Mel. Bonis)名義で盛んな創作・出版活動を繰り広げるが、近年まで作曲家としてはほぼ忘れ去られていた。鍵盤楽曲と室内楽曲を中心に再評価が進み、声楽曲(宗教音楽)も再発掘されるようになった。美しく印象的な旋律が特徴的な、調的な作風を採っている。名前の発音はフランス語ではボニに近いが、日本では英語読みのボニスでも知られる。ただし、近年は英語圏でも原語に近い発音が尊重される傾向にあり、本稿の本文中では以下ボニと表記することにする。

パリの小ブルジョワジーの家庭に生まれる。宗教的に比較的厳格だった両親は我が子の楽才にはほとんど無理解で、子供時代にはピアノを独学で練習した。ボニが12歳のとき両親の友人でパリ音楽院のコルネット科教授であったアンリ・モリーの説得により両親は音楽教育を受けさせることを了承し、ボニはこの頃より作曲を始める。16歳のとき、モリーの紹介で同じくパリ音楽院の教授であったセザール・フランクを紹介されるが、フランクはピアノのレッスンを通じてボニの才能に気づき、一年後にパリ音楽院へ入学するように取りなす。ただし、この時も両親は非協力的な態度であったが、フランクの強い説得に折れたのであった。ボニは伴奏、和声学、作曲のクラスを履修したが、このときの同窓生にピエルネやドビュッシーがいる。当時、作曲は女性の仕事とは考えられていなかったため、女性であることを公にしないほうが無用な差別に会わずに演奏される可能性が高かった。そのためボニはこの学生時代に早くも中性的な偽名メル・ボニを使い始めている。

1876年から1881年まで、作曲法をエルネスト・ギローに師事、伴奏法をオーギュスト・バジユに師事して優秀な成績を収め、学内では伴奏で二等、和声法で一等を受賞した。また、声楽のクラスでは詩人でジャーナリストであり、22歳にして既に一定の影響力を持つ音楽評論家でもあったアメデ・エティシュ(Amédé Landely Hettich)と出会う。ボニとエティシュはたちまち恋に落ち、結婚を目論むも「芸術家同士の危険な結婚」を危惧する両親に阻まれ、ボニは卒業を目前に実家に引き戻される。優秀な学生であったボニの中退は、ギロー、フランク、パリ音楽院の院長を務めていたアンブロワーズ・トマといった教授陣にとっても残念な事件であった。

Charles-Auguste Corbineau画、1885年
基本情報
別名 メル=ボニ
生誕 1858年1月21日
フランス帝国、パリ
死没 (1937-03-18) 1937年3月18日(79歳没)
フランス共和国、サルセル
職業 作曲家

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