ヨーゼフ・ラインベルガー
ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(Josef Gabriel Rheinberger、1839年3月17日 – 1901年11月25日)はドイツ連邦加盟国リヒテンシュタインの首都ファドゥーツに生まれ、ドイツ帝国のミュンヘンに没した作曲家、オルガン奏者、指揮者、教育者。
5歳より音楽教育を受け、7歳でファドゥーツ・聖フローリン教会のオルガン奏者となり 、この頃最初の作曲を行った。1851年にミュンヘン音楽院に入学。専攻はピアノ(Emil Leonhardに師事)と音楽理論(Julius Josef Maierに師事)。また他にJohann Georg Herzogにオルガン奏法を師事。3年間の音楽院のコースを終了した後フランツ・ラハナーに個人指導を受ける。1859年には同音楽院にてピアノ演奏の教師に就任。またペータースより初めての作品出版も行う(『4つのピアノ曲 op.1』)。翌年作曲 、和声、対位法、音楽史[10]の教授に就任。1863年聖ミハエル教会のオルガニストに就任(~1867年まで)[11]。1864年ミュンヘン・オラトリオ協会の指揮者に就任(~77年まで)。王立歌劇場の コレペティートルも勤める(~67年まで)。1867年4月に女流詩人のフランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースと結婚。秋にミュンヘン音楽院が再建されるとオルガンと作曲の教授となり、終生その地位にあった。音楽教師として非常に優秀だったため、ヨーロッパ及びアメリカから彼を慕って生徒が集まった。高名な教え子としてはエンゲルベルト・フンパーディンク、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ、ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック、ホレイショ・パーカー(ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの幼少期に家庭教師をしていたこともあった)などがあげられる。直接の教え子ではないが、マックス・レーガー[12]などからも慕われた。リヒャルト・シュトラウスはいくつかの作品のタクトを振った[13]。また、マックス・ブルッフとは共にとある作曲コンクールの審査員となったことをきっかけにして手紙による交流があった[14]。
1877年にバイエルン王・ルートヴィッヒ2世によってフランツ・ヴュルナーの後任として宮廷楽長に任ぜられる(~94年まで[15])。1878年、『ミサ曲 変ホ長調 op.109 (Cantus Missae)』をローマ教皇レオ13世に献呈し、聖グレゴリーの騎士に叙せられる。他、1887年ベルリン王立芸術アカデミーの名誉賞を受賞[16]。1895年バイエルン王室より大十字勲章を授けられ一代貴族に列せられる。1899年ミュンヘン大学哲学部より名誉哲学博士号の授与、など生前は高い地位と名誉を収めた。1892年妻フランチスカの死去以後は孤独な人生を送ったが、創作意欲は衰えず、彼自身が亡くなる年まで作曲・出版が続いた。生存中の最後の出版は『オルガンソナタ第20番 ヘ長調 op.196 “平和の祭典へ”』。最後の作品『ミサ曲 イ短調 op.197』はクレドの途中で絶筆となった。生前は絶大な人気を誇った作曲家[17]であったが、死後その作品は急速に忘れられていく。
1880年代撮影
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基本情報 | |
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生誕 |
1839年3月17日 ドイツ連邦、ファドゥーツ |
死没 |
ドイツ帝国、ミュンヘン |
1901年11月25日(62歳没)
職業 | 作曲家、オルガン奏者、指揮者、教育者 |
反応