ラヴレンチー・ベリヤ
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(グルジア語: ლავრენტი ბერია、ロシア語: Лавре́нтий Па́влович Бе́рия ラヴリェーンチイ・パーヴラヴィチュ・ビェーリヤ、ラテン文字表記例: Lavrentij Pavlovich Berija、1899年3月29日 – 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。
ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。スターリンの死後は第一副首相(en:First Deputy Premier of the Soviet Union of en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。
しばしば「ラヴレンティ」と表記されるが、ロシア語の発音としてより近いのは「ラヴレンチー」である。
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生年月日 | 1899年3月29日 |
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出生地 | ロシア帝国、ミヘウリ |
没年月日 | 1953年12月23日(54歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
称号 |
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配偶者 | ニーナ・ゲゲチコリ |
子女 | セルゴ・ベリヤ |
サイン | |
ソ連第一副首相
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在任期間 | 1953年3月5日 – 1953年6月26日 |
内務人民委員部長官
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在任期間 | 1938年11月25日 – 1945年12月29日 |
在任期間 | 1953年3月5日 – 1953年6月26日 |
グルジア共産党第一書記
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在任期間 | 1931年11月14日 – 1938年8月31日 |
反応