リカルト・クライチェク
リカルト・ペテル・スタニスラフ・クライチェク(Richard Peter Stanislav Krajicek, 1971年12月6日 – )は、オランダ・ロッテルダム出身の元男子プロテニス選手。1996年ウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス17勝、ダブルス3勝を挙げた。強力な弾丸サーブを最大の武器にする“ビッグ・サーバー”タイプの選手として知られる。妹のミハエラ・クライチェクもプロテニス選手である。
4歳からテニスを始める。彼は12歳の時に、バックハンド・ストロークを両手打ちから片手に変え、1989年にプロ入りした。1991年4月に香港オープンでツアー初優勝。クライチェクの最初の活躍は、1992年全豪オープンの男子シングルス・男子ダブルスベスト4進出であった。男子ダブルスは同じオランダのヤン・シーメリンクと組み、準決勝でウッディーズ組と対戦した試合中に、右肩を痛めて6-4, 1-3のスコアで途中棄権したため、シングルス準決勝のジム・クーリエ戦に出場できなくなった。1993年全仏オープンで2度目の4大大会準決勝に進出した時は、クーリエに1-6, 7-6, 5-7, 2-6で敗れた。この後しばらく、故障に悩んで低迷した時期があった。
1996年ウィンブルドン選手権に臨んだ時、クライチェクは世界ランキング13位であったが、「過去に芝生の大会で実績がないため」ノーシードで出場予定だったが、第7シードのトーマス・ムスターの欠場で第17シードとなる。その準々決勝で、クライチェクは大会4連覇を目指したピート・サンプラスを7-5, 7-6, 6-4のストレートで破る番狂わせを起こした。初めての決勝でマラビーヤ・ワシントンに6-3, 6-4, 6-3で勝利し、オランダ人の男子テニス選手として最初の4大大会優勝者となった(オランダ人女子テニス選手の4大大会シングルス優勝者は、1927年の全仏選手権で優勝したコルネリア・ボウマン1人だけである)。1993年から2000年までの8年間で、ウィンブルドン選手権でサンプラスを破った選手は、この1996年のクライチェク1人だけであった。サンプラスとの通算対戦成績は「6勝4敗」と相性が良かった。
翌年の1997年ウィンブルドン選手権で、大会前年優勝者のクライチェクは4回戦で地元期待のティム・ヘンマンに敗れてしまう。さらにその翌年の1998年ウィンブルドン選手権で2年ぶり2度目の準決勝に進出したが、ゴラン・イワニセビッチとの3-6, 4-6, 7-5, 7-6, 13-15の激戦の末敗れた。
リカルト・クライチェク
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基本情報 | |
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フルネーム | Richard Peter Stanislav Krajicek |
国籍 | オランダ |
出身地 | 同・ロッテルダム |
居住地 | 同・マイデルブルフ |
生年月日 | 1971年12月6日(47歳) |
身長 | 195cm |
体重 | 89kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 | |
デビュー年 | 1989年 |
引退年 | 2003年 |
ツアー通算 | 20勝 |
シングルス | 17勝 |
ダブルス | 3勝 |
生涯通算成績 | 488勝279敗 |
シングルス | 411勝219敗 |
ダブルス | 77勝60敗 |
生涯獲得賞金 | $10,077,425 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | ベスト4(1992) |
全仏 | ベスト4(1993) |
全英 | 優勝(1996) |
全米 | ベスト8(1997・99・2000) |
優勝回数 | 1(英1) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | ベスト4(1992) |
全仏 | 3回戦(1991) |
全英 | 2回戦(1991) |
全米 | 1回戦(1995) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 4位(1999年3月29日) |
ダブルス | 45位(1993年7月26日) |
反応