リチャード・オコーナー
サー・リチャード・ニュージェント・オコーナー(英語: Sir Richard Nugent O’Connor、KT, GCB, DSO、1889年8月21日 – 1981年6月17日)は、イギリスの軍人。最終階級は陸軍大将。第一次世界大戦に従軍した経験を持ち、第二次世界大戦では西方砂漠軍を指揮している。彼はコンパス作戦の野戦指揮官を務め、イタリア王国陸軍を撃破した。この勝利はアフリカから枢軸国陣営をほぼ追い出すものであり、後にアドルフ・ヒトラーは反撃のためエルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団を送り込んでいる。オコーナーはそのロンメルによって捕虜となり、1941年4月7日から2年間イタリアの戦争捕虜収容所で過ごした。1943年のグランディ決議によりベニート・ムッソリーニが失脚すると、その年の秋に収容所から脱走している。戦線に復帰した彼は、1944年に第8軍団の司令官を拝命、ノルマンディーの戦い、次いでマーケット・ガーデン作戦を指揮した。1945年からは英領インドの東部駐留軍司令部の最高司令官を務めた。イギリスによるインド亜大陸支配の終結は北部駐留軍司令部で迎えている。イギリス本国へ帰国後はロンドンで陸軍副総監に就き、1948年に退役した。
オコーナーは大戦の功績により、2種類の騎士団で最高位の勲爵士となっている。また、殊功勲章(2度)や武功十字章、フランスからは1914年-1918年従軍十字章とレジオンドヌール勲章を受章している。ジョージ6世の国王付副官となる栄誉も受けた。第一次世界大戦で9回、パレスチナ独立戦争で1回、第二次世界大戦で3回殊勲者公式報告書に名を連ねている。
オコーナーは、1889年8月21日に英領インドのシュリーナガルに生まれた。彼の父はロイヤル・アイリッシュ・フュージリアーズの少佐であり、母は元インド中央州長官の娘である。1899年よりトンブリッジの学校に通い、1902年にはクロウソーンのタワーズ・スクールに入学した。その翌年、父親を事故で亡くす。それを機に彼はバークシャーのウェリントン・カレッジに移り、1908年にサンドハースト王立陸軍大学へ入学を果たした。翌年9月、彼は少尉に任官され、キャメロニアン・スコットランド・ライフル連隊第2大隊へ配属された。この連隊とは、生涯に渡り緊密な関係を築いていくことになる。1910年1月、第2大隊はコルチェスターを訪れ、彼は通信やライフル取り扱いの訓練を受けた。その後連隊は1911年から1912年までマルタに駐屯したが、そこで彼は通信兵を務めている。
リチャード・オコーナー
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渾名 | ディック |
生誕 |
1889年8月21日 イギリス領インド帝国 シュリーナガル |
死没 |
1981年6月17日 イギリス ロンドン・キング・エドワード7世病院 |
(91歳)
所属組織 | イギリス |
部門 | イギリス陸軍 |
軍歴 | 1909年 – 1948年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
認識番号 | 936 |
部隊 | キャメロニアン (スコットランド・ライフル) |
指揮 |
名誉砲兵中隊、第2歩兵大隊 ペシャーワル旅団 第7歩兵師団 第6歩兵師団 西方砂漠軍 第13軍団 エジプト駐留軍司令部 第8軍団 東部駐留軍司令部 北部駐留軍司令部 |
戦闘 |
第一次世界大戦 パレスチナ独立戦争 第二次世界大戦 |
受賞 |
シッスル勲章 バス勲章 殊功勲章 飾板 武功十字章 レジオンドヌール勲章(フランス) 1914年-1918年従軍十字章(フランス) 武勇勲章銀章(イタリア) 殊勲者公式報告書への記載(計13回) |
他職業 |
スコットランド陸軍幼年部隊司令官 キャメロニアン・スコットランド・ライフル連隊大佐 ロス・アンド・クロマーティ統監 スコットランド国教会全国集会国王代理 |
反応