リチャード・ノリス・ウィリアムズ

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リチャード・ノリス・ウィリアムズ(Richard Norris Williams II, 1891年1月29日 – 1968年6月2日)は、アメリカの男子テニス選手。「ディック・ウィリアムズ」(Dick Williams)とも呼ばれる。スイス・ジュネーヴ生まれ。ハーバード大学卒業。1912年4月のタイタニック号沈没事故を生き延びた後、1910年代から1920年代にかけて、アメリカを代表するテニス選手の1人として活動した。彼は全米選手権で男子シングルス2勝・男子ダブルス2勝・混合ダブルス1勝を挙げ、ウィンブルドン選手権でも1920年に男子ダブルス優勝者となり、オリンピックにおいても1924年のパリ五輪で混合ダブルスの金メダルを獲得した。

ウィリアムズのテニスは、非常にテンポの速い攻撃型のプレースタイルで、大半のボールをライジング(相手ボールの上がり端を打つこと)で返球し、大胆な鋭い強打のショットを決め球に駆使した。試合によってはミスの連発につながり、格下の相手に負けることもしばしばあったという。好調時と不調時の差が激しい人であったが、つぼにはまった時のスピードとパワーは手がつけられない強さを誇った。彼はスイスでテニスを覚えたことから、ラケットをコンチネンタル・グリップで握り、グラウンド・ストロークはバックスピン(逆回転のボール)で打っていた。

ウィリアムズは1891年1月29日、スイス・ジュネーヴでアメリカ人の両親の間に生まれた。彼は21歳の時、1912年にタイタニック号に乗ってアメリカへ向かった。4月14日に船が沈没した時、彼の父親であるデュアン・ウィリアムズは船内に残り、海難事故の犠牲者となった(ノリスの手記によると折れた煙突の下敷になったという)。リチャードは船の甲板から海に飛び込み、必死に救命ボートまで泳いで命を取り留めた。彼の足はすっかり凍りついたが、船医から勧められた足の切断手術を断り、九死に一生を得てアメリカに到着した。その半年後、ウィリアムズは1912年全米選手権でテニス経歴を開始する。初出場時は男子シングルス4回戦でモーリス・マクローリンに敗れたが、混合ダブルスでメアリー・ブラウンと組んで優勝した。ウィリアムズの初期の経歴では、このマクローリンが最大のライバルになる。1913年から、ウィリアムズは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、初めてのイギリス遠征に旅立った。初出場のウィンブルドンは男子シングルス4回戦で敗れたが、ウィンブルドンの試合会場で行われたデビスカップで、アメリカは決勝でイギリスを「3勝2敗」で破って優勝を決めた。ウィリアムズはシングルス第2試合でチャールズ・ディクソン(1873年 – 1939年)を破ったが、アメリカ・チームが優勝を決めた後の最終第5試合でジェームズ・パーク(1881年 – 1946年)に逆転負けした。

リチャード・ノリス・ウィリアムズ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 スイス・ジュネーヴ
生年月日 (1891-01-29) 1891年1月29日
没年月日 (1968-06-02) 1968年6月2日(77歳没)
死没地 アメリカ・ペンシルベニア州ブリンモア
身長 182cm
利き手
殿堂入り 1957年
生涯獲得賞金 値なし
4大大会最高成績・シングルス
全英 ベスト4(1924)
全米 優勝(1914・16)
優勝回数 2(米2)
4大大会最高成績・ダブルス
全英 優勝(1920)
全米 優勝(1925・26)
優勝回数 3(英1・米2)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 優勝(1912)
優勝回数 1(米1)
獲得メダル
テニス
オリンピック
1924 パリ 混合ダブルス

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