レオニード・サバネーエフ
レオニード・レオニードヴィチ・サバネーエフ(ロシア語: Леони́д Леони́дович Сабане́ев、英語: Leonid Leonidovich Sabaneev, 1881年10月1日 – 1968年5月3日)は、ロシア人音楽評論家・音楽学者・作曲家。1926年に西側に亡命した。姓のラテン文字転写については、Sabaneyevなどとする場合もある。
大地主の家柄に生まれ、父レオニード・パーヴロヴィチ・サバネーエフは動物学者でもあった。早くから楽才を示し、セルゲイ・タネーエフとニコライ・リムスキー=コルサコフの指導を受ける。それでもなお数学と自然科学をモスクワ大学で学んだ。1906年に数学で学位論文を提出して卒業したにもかかわらず、今度は音楽に没頭し、モスクワやサンクトペテルブルクで作曲家や音楽評論家として活動した。急進的な新思潮の擁護者として、例えば、1912年刊行のドイツの年鑑『青騎士(ドイツ語: Der Blaue Reiter)』に、アレクサンドル・スクリャービンの《交響曲 第5番〈プロメテ、火の詩〉》についての論文を寄稿している。
サバネーエフは、音楽の行く手を超半音階に見据え、オクターヴの53分割を説いて回った。ロシア革命成立後にソビエト連邦において高位を得て、国立音楽研究所学術委員会の設立者兼委員長や、芸術アカデミーの音楽部局長に就任し、また「プラウダ」紙や「イズベスチヤ」紙の音楽部員も務めた。1919年には、ペトログラード音楽院修了生のピアニスト、タマーラ・クズネツォワと結婚し、1女を儲けた。
ザバネーエフ(左)、スクリャービン(中)、タチアナ・ショツェル(右) 1929年
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基本情報 | |
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生誕 |
1881年10月1日 (ユリウス暦9月19日) |
出身地 | ロシア帝国 モスクワ |
死没 |
フランス アンティーブ |
1968年5月3日(86歳没)
学歴 | モスクワ大学 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 音楽評論家・音楽学者・作曲家 |
反応