丁固子賤ていこしせん

丁固子賤ていこしせん

丁固は字を子賤といい、会稽郡山陰の人である。父は丁覧、子は丁彌がいる。丁固は若くして父を失くし、母と二人で暮らした。貧しい生活の中で母に孝養を尽くし、一族で身寄りがない年下の者と生計を一つにして、辛苦を共にした。257年、彼が歩兵校尉鄭沖・将軍鍾離牧らとともに鄱陽・新都両郡の民衆の叛乱を討伐した時は廷尉だった。262年、丁固は光禄勲孟宗と並んで左右の御史大夫に任じられた。264年、孫晧が帝位に即いた。翌年、孫晧は武昌に遷都し、旧の都建業を丁固と諸葛靚に守らせた。266年、丹揚郡永安の賊施旦らが数千人の徒党を集めて叛乱した。永安候孫謙を脅迫して軍に同行させ、建業に迫った時は、一万余人にもなっていた。丁固・諸葛靚はこれを牛屯で大破し、孫謙を保護した。この年の12月、左丞相陸凱が大司馬丁奉と御史大夫丁固と謀って、孫晧を廃し、孫休の子を立てようとしたが、結局実行されずに終わった。268年、丁固が司徒に、孟宗が司空に任じられた。273年、丁固は亡くなった。享年76。呉の学者の中でただ一人、候に封じられた闞沢は、丁固を見て、その非凡さを知り、「この子は後に必ず人臣の位を極めるであろう」と言った。虞翻の丁固の同僚に宛てた手紙の中で、「丁子賤の心は深く豊かで徳を好み、父上の事業を立派に受け継いで遺漏がないのは、真にみごとである」と述べている。『呉書』に丁固の伝がないため、彼の若いころ官歴は不明であるが、陸機(陸抗の子)は『弁亡論』にて、晩年の呉を支えた人々の名を挙げた際、丁固の名前も挙げている。丁固が尚書だった時代、彼が見た夢を韋昭を『呉書』が記している。ある日のこと、丁固は松の木が腹に生えた夢を見て「松の子は分解すると十、八、公になる。18年後、私は三公に昇進するだろう」と人に言って、結局そのとおりになった。

反応