上杉憲政

上杉憲政

室町幕府の関東管領を務めた山内上杉氏の事実上最後の当主。
上杉謙信を養子にしたことでも知られる。別名は憲当、光徹。法名は成悦、光徹、光哲。官位は兵部少輔。
父・上杉憲房が没したとき憲政はまだ3歳だったため、父の養子・上杉憲寛が家督を継いだが、1531年、憲政はこれを追い出し山内上杉家を継ぐと関東管領になった。当時、後北条氏が武蔵へ進出したびたび上杉軍と交戦していた。憲政はこれに対抗するため、長きにわたり争いを繰り返してきた仇敵・扇谷上杉氏と手を組むことにする。そして、1545年、憲政は扇谷上杉の上杉朝定や古河公方・足利晴氏らとともに8万ともいわれる大軍勢をもって北条綱成が守る河越城を包囲した。
しかし、北条軍の夜襲により憲政らは歴史的大敗を喫してしまう(河越夜戦)。憲政は上野平井城に退いたが、北条軍は平井城にも迫り、さらに家臣らの離反などもあり、1552年ついに平井城は落城、憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って亡命した。
越後入国後、憲政は景虎を養子とし、上杉家の家宝や関東管領の職も譲渡した。その後、憲政は隠居し剃髪すると光徹と号した。隠居生活をしていた憲政だが、1578年、謙信が後継者を決めぬまま没したことで勃発した後継者争いいわゆる「御館の乱」に巻き込まれ、上杉景勝方の者の手によって殺害された。自刃したともいわれる。

反応