中島親孝
中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月28日 – 1992年(平成4年)5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵54期。最終階級は海軍中佐。
1905年(明治38年)5月28日北海道札幌市に紙問屋・中島亀吉の三男として生まれる。麻布中学を経て、1923年(大正12年)4月、海軍兵学校54期に入校。1926年(大正15年)3月27日、卒業、席次4番の恩賜組であった。同期に中山定義がいる。
海軍通信学校高等科を首席修了。「浅間」乗組みとして2度遠洋航海に参加し、少尉候補生の指導にあたっている。第5水雷戦隊及び第3戦隊の各通信参謀を勤め、「足柄」に乗艦してイギリスに赴き、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した。帰国後海軍大学校甲種学生(37期)を卒業。軍令部第4部9課課員。
1941年(昭和16年)9月、第二艦隊参謀に補職された。12月8日、太平洋戦争開始。ミッドウェー海戦前、中島は第一航空艦隊首席参謀・大石保に対して、インド洋作戦で第一航空艦隊が至近弾を受けたので、空母の集中運用が危険であることを指摘したという(しかし、第一航空艦隊はその問題を承知で集中運用を採用しており、戦史叢書は分散運用にも別の問題があり、かえって不適当と指摘している)。1942年(昭和17年)7月14日、再編された第三艦隊の通信参謀に着任。横須賀鎮守府附。
第三艦隊参謀時代
|
|
生誕 |
1905年5月28日 北海道札幌市 |
---|---|
死没 | 1992年5月31日(87歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1927年 – 1945年 |
最終階級 | 海軍中佐 |
除隊後 | 厚生省官僚 |
反応