井上井月

江戸時代末期から明治にかけての漂泊の俳人。本名は一説に井上克三(かつぞう)、通称は勝之進、別号に柳の家井月。越後国長岡(現・新潟県長岡市)で生まれたとされるが出自については不明点が多い。18歳頃に故郷を出て江戸で儒学者・佐藤一斎に学び、その後、近畿、北陸、東北などを行脚、30代の頃、信州伊那谷にやってきて、以後、30年近く伊那谷を中心に放浪の生活を送った。伊那谷は好学で風流風雅をたしなむ土地柄だったため、井月は文化人として俳諧を教えたり、詩文を揮毫して生活の糧とした。漂泊のなかに生きた井月は、1886年(明治19)の師走、東伊那村(現・長野県駒ヶ根市)の路傍に行き倒れているところを発見されるが、翌年、他界した。長野県伊那市に墓がある。井月は俳聖・松尾芭蕉を尊崇し、「我道の神とも拝め翁の日」という句を残している。生涯に1700句以上の俳句を残したといわれるが、生前、自分の句集を残すことはなかった。死後、弟子により句集『余波の水茎(なごりのみづぐき)』が刊行されている。代表的な句に「落栗の座を定むるや窪溜り」「目出度さも人任せなり旅の春」など。また、「千両千両」という口癖は有名で、親切を受けると井月は感謝の意を込めこの言葉をつぶやいたという。書もよくし、小説化・芥川龍之介はその筆跡を「入神と称するをも妨げない」と絶賛している。井月の自由で個性的な生き方は後世の文人にも多大な影響を与え、自由律俳人・種田山頭火は井月に傾倒し、墓を訪ねて参ると酒を注ぎ即吟4句を残した。また、漫画家・つけ義春は作品『無能の人』の最終話「蒸発」で井月の半生をくわしく描き、「降るとまで人には見せて花曇り」などの句も引用している。
反応