伊奈忠尊

江戸時代中期の伊奈家最後の関東郡代。通称は半十郎、半左衛門。官位は摂津守、右近将監。父は備中国松山藩主・板倉勝澄だが、跡継ぎのいなかった伊奈忠敬の婿養子となり関東郡代の職も継いだ。代々関東の天領を支配し領民の尊敬を集めてきた関東郡代の伊奈家。その影響力は忠尊の時代にも絶大で、1787年(天明7)に江戸で起きた打ちこわしの際には、全国的に凶作の影響で米不足だったにもかかわらず各地から米を買い集め江戸に放出し事態を収束させた。しかし、伊奈家の権勢はしだいに幕府から危険視されるようになり、家中の内紛の影響もあり、忠宥は関東郡代の職を退かざるをえなくなり、所領も没収、蟄居を命ぜられた。忠宥は31歳の若さで悲運のうちに没した。墓所は東京都文京区駒込にある吉祥寺。忠宥の改易により伊奈家による関東郡代は廃止され、天領の支配は勘定奉行と代官に分けられた。
反応