伊籍機伯いせききはく

伊籍機伯いせききはく

伊籍、字を機伯といい、山陽郡の人である。若いころから、同郷の鎮南将軍劉表に身を寄せていた。劉備が荊州にいたころ、伊籍はつねに往来してたよりにした。劉表が亡くなると、そのまま劉備に随行して南に向かい長江を渡り、つき従って益州に入った。益州が平定されたのち、伊籍は左将軍従事中郎となり、簡雍・孫乾らに次ぐ待遇を受けた。東方の呉に使者として派遣されたとき、孫権は彼が才気あふれる弁舌家だと聞いて、弁辞によって逆に屈伏させようと思った。伊籍が入ってきて拝礼したところで、孫権は、「無道の君主につかえて苦労するのか」といった。伊籍はすぐさま、「一度拝礼して一度起つだけのことで、苦労というほどのことはありません」とやりかえした。伊籍の機智は、すべてこういうふうであったので、孫権はたいそう見事だと感心した。後に昭文将軍に昇進し、諸葛亮・法正・劉巴・李厳とともに『蜀科』(蜀の法律)を作った。小説『三国志演義』では、劉備の乗っている馬が凶馬的盧であると教えたり、蔡瑁による劉備暗殺計画を伝えたりすることもしている。また、馬良・馬謖兄弟を推薦している。劉備に重用された人物の一人であるが、本伝の記述が非常に乏しく、生没年や一族の詳細が一切不明である。おそらく、215年から220年(劉備が皇帝に即位する前年)の間に死去したと推測する。また、『蜀科』を制定した人物らと並ぶ(諸葛亮・法正・劉巴・李厳)ところからして、劉備に信任されていることは明白であり、優秀であったと考えられる。本伝末文には、のびのびした態度でみごとな議論を行い、その時代において礼遇された、としている。

反応