伊達安芸

伊達安芸

江戸時代前期の武士、陸奥国遠田郡湧谷の領主。江戸時代における「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の中心人物のひとり。「安芸」は通称で、名は宗重。幼名は虎松丸、天童頼長、伊達宗重と改名した。別名は安芸のほかに信濃、甲斐、碧山。「伊達騒動」では、まだ2歳の4代藩主・伊達綱村の後見人・伊達兵部(宗勝)とその一派である家老・原田甲斐(宗輔)らの専横を警戒し、兵部に諫言するが聞き入れられなかった。さらに藩内では毒殺未遂事件が起きるなど家中は混乱していた。反兵部派の筆頭として安芸は仙台藩安定のため、兵部らの非を幕府に訴え出る。これにより幕府大老・酒井忠清の屋敷に関係者が集められ詮議が行われたが、この場で安芸は原田甲斐に斬り付けられ絶命した。その後、甲斐も死亡した。墓所は宮城県遠田郡涌谷町にある見龍寺。この「伊達騒動」において安芸は“忠臣”として高く評価され、人形浄瑠璃『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』など「伊達騒動」を題材にした作品でも「原田甲斐=悪人」「伊達安芸=忠臣」として描かれている。

反応