伊達綱宗

伊達綱宗

江戸時代前期の大名、陸奥国仙台藩の3代藩主。伊達家19代当主で、祖父は“独眼竜”のあだ名で知られる伊達政宗。後西天皇とは従兄弟関係になる。幼名は巳之介。官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守、美作守。伊達政宗の二男・忠宗を父に持ち、若くして3代藩主となったが、酒色におぼれ風流三昧、藩政に一切見向きもしない“暗愚な藩主”だったといわれる。このため叔父の一関藩主・伊達宗勝(通称:兵部)は親族大名の岡山藩主・池田光政、柳川藩主・橘忠茂、宮津藩主・京極高国と話し合い、幕府老中・酒井忠清に問題解決を相談した。しかし綱宗の行いは改まらず、ついに家臣と親族大名の連名で綱宗の隠居および嫡子・亀千代の家督相続が幕府へ出願され、幕府もこれを許可した。これにより綱宗はわずか在任2年、21歳の若さで強制的に隠居させられ、4代藩主にはまだ2歳の伊達綱村が就任した。この隠居事件は、江戸時代の「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の原因のひとつとなった。隠居後、綱宗は江戸の品川屋敷に住み、和歌や書画、彫刻などの芸術に没頭、優れた作品を残した。綱宗の作品は、現在、仙台市博物館に所蔵されている。歯肉がんにより江戸で死去。墓所は祖父・政宗や父・忠宗と同じ仙台市青葉区にある経ヶ峰で、綱宗の廟所は「善応殿」と呼ばれた。綱宗といえば、吉原の名妓・高尾太夫を自分の意に沿わなかったとして船中にて斬殺した、という逸話が有名だが、これはあくまで俗説である。また、「暗愚な藩主」といわれるが、これは後西天皇と従兄弟であることから幕府にいらぬ警戒心を抱かれないようにするための“暗愚のふり”に過ぎなかったという説もある。

反応