伍孚徳瑜ごふとくゆ

伍孚徳瑜ごふとくゆ

伍孚は字を徳瑜といい、汝南郡呉房の人である。若い頃から高い節義を持っており、郡に仕えて門下書左になった。伍孚の本邑の長が罪を犯したことがあった。汝南太守は伍孚に逮捕状を作成させ、配下の役人を派遣してこれを捕まえよと命じた。伍孚はその命令書を受け取らず、「君に価しない君であろうと、臣下は臣下としての節義を尽くさなければなりません。明府は何故孚に命令を下し、配下の者に本邑の長を逮捕させようとなさるのですか。どうか他の者にお申し付け下さい」と言った。太守は彼の言葉に感心して、命令を撤回した。後に大将軍何進がまねいて東曹属に任じた。伍孚は侍中、河南尹、越騎校尉へと累進した。当時、董卓は献帝を擁し、一手に兵権を握って暴逆の限りを尽くし、百官はみな慄え戦いていた。伍孚はこの有様を憤り、朝服の下に小さな鎧を着込み、佩剣を潜ませて董卓に見え、隙あらば刺殺しようと決意した。そうとは知らない董卓は、訪れた伍孚は佩剣を抜いて踊りかかったが、董卓に素早く身を躱され、逆に取り抑えられてしまった。「卿は謀反したのか」と董卓が言うと、伍孚は大声で「汝は私の主君ではないし、私は汝の臣ではないから、これを謀反と言えるのか。汝は国を乱し、天子の位を奪い、罪悪の限りを尽くしている。今日こそ私の死ぬ日だから、こうして汝を殺しに来たのだ。残念なのは汝を市場で車裂きの刑に処し、天下の人々に謝罪できないことだ」と叫んで殺された。謝承の『後漢書』によると、初め、董卓が信頼して用いた尚書周毖や城門校尉伍瓊らが推薦した韓馥・劉岱・孔伷・張咨・張邈らは州郡に着任すると、みな軍勢を集めて董卓討伐に立ち上がった。董卓は二人が内通して自分を売った、と思い込んで殺害してしまった。謝承が記す伍孚の字と本籍の郡は、この伍瓊と同一で、ただ死に至る事情だけが異なっている。孚が瓊の別名なのか、別に伍孚という人がいたのかどうかは不明である。

反応