傅彤ふとう(ふゆう)

傅彤ふとう(ふゆう)

傅彤といい、荊州義陽郡の人である。子は傅僉、孫は傅著・傅募らがいる。222年、夷陵の戦いにおいて、総指揮に当たった馮習や先鋒の張南らが戦死し、蜀兵の死者は数万に埋めていた。このとき、傅彤は劉備の退却を助けるため殿軍をかって出て防戦した。部下は次々と倒れ、傅彤独りとなった。呉将は彼に降伏を呼びかけると、「呉の狗奴、漢の将軍に降伏する者があろうか」と罵って、ついに戦死した。劉備は辛うじて白帝城に入ることができた。『三国志演義』でも、劉備が呉に侵攻した時、趙融や輔匡らと共に別督に任じられる。槍の使い手で、各地で呉軍を破るなど活躍するが、正史同様に大敗を喫し、呉軍から降伏勧告を受ける。その際も正史同様に「わしは漢の大将だ。呉の犬めになど降伏するものか」と言って、呉将の丁奉と百余合も戦って戦死する事になる。名が「傅肜」(ふゆう)とも表記される。

反応