公慶

公慶

江戸時代前期の三論宗の僧。丹後国宮津(現・京都府宮津市)にて生まれる。当時、東大寺の大仏殿は戦国乱世の戦火により焼失し、大仏も損傷激しく見るも無残な状態だった。公慶が13歳の時、雨に打たれる大仏を見て「自分には傘があるが大仏様は風雨にさらされたままだ」と嘆き涙し、大仏殿再建を発願する。37歳となった公慶は、幕府より許可を得て大仏殿再興のため「一紙半銭」をスローガンに諸国勧進の旅に出、7年後には1万1千両(約10億円)もの寄進を集めた。1692年(元禄5)、大仏は6年を要してついに修復され盛大に開眼供養が行われた。公慶はさらに大仏殿を再建すべく諸国勧進を再開。大仏殿再建には莫大な費用が必要なため公慶は、5代将軍・綱吉の信頼あつい隆光の仲介により綱吉に拝謁、さらに綱吉の母・桂昌院にも拝謁し支援を受けることに成功した。工事は着々と進み、1705年(宝永2)には大仏殿上棟式が行われた。しかし、公慶は大仏殿の完成を見ることなく病により江戸で他界、その遺体は東大寺まで運ばれ、近在の五却院に埋葬された。再興事業は弟の公盛に引き継がれ、公慶の死から4年後の1709年(宝永6)、ついに大仏殿は落慶した。公慶の死後に仏師・性慶と公慶の弟子・即念によりつくられた「公慶上人像」は、東大寺大仏殿を見上げられるよう東を向いて公慶堂に安置されている。

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