劉基敬輿りゅうきけいよ

劉基敬輿りゅうきけいよ

劉基、字を敬輿といい、東莱郡の牟平の人である。父は後漢の揚州刺史劉ヨウ、弟は劉鑠、劉尚、娘は孫覇の妻である。父の劉ヨウは孫策に敗れ、豫章に付き添って滞在していた。年は十四であったが、劉ヨウが亡くなり、喪に服して少しも礼にはずれるところなく、もとの部下たちがもたらしたお見舞いの食料を一つも受け取らなかった。劉基は、容姿が端麗で、孫権は彼を愛し鄭重した。孫権が驃騎将軍となると、東曹掾として劉基をその将軍府に招き、輔義校尉・建忠中郎将の官を授けた。孫権が呉王となると、劉基を大農の官に昇進させた。孫権が酒宴を開いた際、騎都尉の虞翻が酒に酔って孫権の逆鱗にふれたことがあった。孫権を虞翻を殺せといい、その怒りは手もつけられぬほどであったが、劉基が強く諌めたため、虞翻は死をまぬがれることができた。郎中令にうつり、孫権が帝位に即くと、改めて光禄勲に任じられ、分平尚書事の任にあたった。年四十九で死去した。とても暑い季節に、孫権が船上で酒宴を開いたことがあった。船の上に設けられた楼の上にいるときに雷雨に遭ったが、孫権は自分の上に蓋(貴人にさしかける大きな傘)をさしかけさせ、劉基にも蓋をさしかけるよう命じた。他の人々は蓋の下に入ることができなかったのである。劉基が孫権から手厚い礼遇を受けることは、こんなふうであった。孫権が息子の孫覇のつれあいとして劉基の娘を娶らせると、都に一区画分の広さの屋敷を賜わり、季節ごとの特別の賜わりものは、全ソウや張昭に等しかった。『呉書』によると、劉基は多くの苦難にみまわれ、苦労をなめつくしたが、ひっそりと世に処して道を楽しみ、そうした境涯を悲しんだりはしなかった。弟たちといっしょに暮らし、いつも晩く寝て早く起き、妻妾たちも彼の顔を見ることは稀であった。弟たちは彼を尊敬し、父親に対するように彼に仕えた。みだりに交遊を広めたりせず、その門をつまらぬ客が訪れることはなかった。各伝において、容姿が端麗であるとしているように、容姿にふれて評価されているのは、晋の司馬炎と劉基だけである。『三国志演義』には一切登場しない人物である。

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