加藤明成

加藤明成

江戸時代前期の大名、陸奥国会津藩の2代藩主。幼名は孫次郎、号は休意。官位は従五位下、従四位下、式部少輔、侍従。父は「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして名高い戦国大名・加藤嘉明(よしあきら)。父の死後、会津40万石を継ぎ2代藩主となった。明成は会津地震(1611)で倒壊したままだった会津若松城(鶴ヶ城)の大改修に着手、天守を5層にし石垣も新築、空堀にも水をたたえた。なお、明成の改修した若松城は戊辰戦争で砲撃され1874年(明治7)に破却されたが、1965年(昭和40)の再建の際には明成のつくった5層の天守が再現された。また城下町を整備するなど会津藩の基礎固めに務めた。しかし、明成は父・嘉明も危惧したといわれるほど剛毅で我の強い性格だったといわれ、筆頭家老・堀主水(もんど)と対立の末、ついに主水が妻子と家臣を連れて会津から出奔、幕府に明成の苛政を訴え出るという事件が起きる。激怒した明成は執拗に主水を追いかけ、逃れていた高野山から身柄を引き取ると斬首した。さらに主水の家族も処刑した。この一連の騒動は「会津騒動」と呼ばれるが、これを遠因に明成は主水の死から2年後、病気を理由に会津40万石を幕府に返上した。子の明友が治める石見国吉永藩(現・島根県大田市)にて隠居し、同地で没した。墓所は京都市東山にある東大谷墓地。なお、子の明友はのち近江国水口藩に転封され加藤家は幕末まで続いた。剛毅な性格だったといわれる明成には次のような逸話がある。江戸城で老将・伊達政宗は年下の明成に対し、「加藤家は伊達の牽制役として会津をまかされたのだろうけど、そうそううまくいくかな?」と挑発した。これに対し明成は「伊達殿が60万石でなく倍の120万石だったら今すぐにでも斬りにお伺いするのに」と切り返したという。

反応