原田要
原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 – 2016年(平成28年)5月3日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。
長野県上水内郡浅川村(現長野市)の農家に生まれた。わんぱくで勉強は好きではないが、よく出来たほうで、1929年(昭和4年)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)に入学する。
1933年(昭和8年)、一般志願兵として海軍に入隊し、横須賀海兵団で新兵教育を終えた後、駆逐艦「潮」乗組みとなった。だが大砲や魚雷があまり好きになれず、やがて幼少時に見て以来ずっと憧れていた飛行機に乗りたいと志すようになったものの、上司や父の反対のため、たまには飛行機に乗せてもらえるということで、1935年(昭和10年)横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊した。しかし、期待したほどには飛行機に乗せてもらえず、半年後に航空兵器術練習生を卒業し、空母鳳翔乗組みとなる。そこで搭乗員との待遇の違いを見せられ、また勇ましい戦闘機乗りに憧れ、思いを抑えることが出来なくなり、自分で勝手に親の承諾書を作り、操縦練習生試験の願書を提出する。
同1935年(昭和10年)操縦練習生試験に合格し、霞ヶ浦航空隊へ入隊。ここでは「雷撃の神様」こと村田重治等、著名な搭乗員に教えを受ける。1937年(昭和12年)に操縦練習生35期を首席で卒業。佐伯空での戦闘機延長教育の後、12航空隊付きとなった。同年に支那事変が勃発し、南京陥落直前の同年12月12日、日本海軍機の誤爆によるパネー号事件が発生したが、その時の戦闘機隊の一員として原田も参加し、爆弾を命中させている。
1941年、大分空にて
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生誕 |
1916年(大正5年)8月11日 長野県上水内郡浅川村 |
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死没 | 2016年5月3日(99歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1933年 – 1945年 |
最終階級 | 海軍中尉 |
除隊後 | 幼稚園経営 |
反応