厳顔げんがん

厳顔げんがん

厳顔といい、益州巴郡臨江県の人である。劉焉、次いで劉璋に仕え、巴郡の太守を務めていた。211年、劉備が蜀に入国し、巴郡まで来たとき、厳顔は胸を叩いて嘆息し、「これこそ、いわゆる一人で奥山に坐し、猛虎を放って我が身を守るようなものだ」といった。やがて張飛が江州に到着すると、厳顔は撃破され生け捕りにされた。張飛は、厳顔をどなりつけ「大軍がやってきたのに、なぜ降伏せず、あえて抗戦したのか」というと、厳顔は、「あなた方は無礼にも、わが州を侵略した。わが州には首をはねられる将軍がいるだけで、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛は立腹して、側近の者に引っ張って行かせ、首を切らせようとしたが、厳顔は顔色ひとつ変えず、「首を切るのなら、さっさと切ればよい。どうして腹を立てることがある」といった。張飛は見事だと感じ、厳顔を釈放し、招いて賓客とした。その後、劉備の家臣となった。『三国志演義』では、厳顔は老将と設定されている。張飛に降伏した後、自ら他の守将に降伏勧告を行なった。その後は黄忠と共に老将コンビを結成して、葭萌関の戦いでは大いに活躍しているが、その後は一切登場しない。南宋末期の宰相文天祥が作った詩「正気の歌」にも、蘇武・張巡ら歴代の忠臣義士と並んで厳顔が登場する。生没年も不明で、最終的には帰順した人物が張良・諸葛亮・蘇武といった顔触れとともに登場するのも、ひとえに張飛に言い放った言葉の強い印象故と言える。重慶市忠県で三国時代の墓が発見された際、地元の言い伝えを根拠に厳顔の墓であると主張された事があったが、事実は不明である。

反応