史渙公劉しかんこうりゅう

史渙公劉しかんこうりゅう

史渙、字を公劉といい、沛国の人である。子は、史静がいる。若いころには任侠の徒で、男らしい性格だった。曹操がはじめて旗揚げしたとき、客分として随行し、中軍校尉を代行した。征伐に随行するときは、いつも諸将を監督し、信頼され、中領軍に転じた。199年、史渙は、袁紹と合流しようとしていた眭固を曹仁や楽進ら諸将と共に攻撃し、眭固を斬った。その軍勢を手中に収めることに成功した。200年、官渡の戦いで、曹操は荀攸の計略を用いて、徐晃・史渙を派遣して韓猛の輸送隊を撃破し、数千輌の穀物輸送車を焼き払った。これにより袁紹軍は多くの兵糧を失ってしまった。曹操が柳城を討伐しようとしたとき、領軍の史渙は遠征して敵地深く進入することは、万全の計画ではないと考え、韓浩と協力して諌めたいと思った。しかし、韓浩は兵士の気勢を挫くべきではないとして、逆に諌められた。かくて、征伐の供をして柳城を撃破した。209年、史渙は死去し、子の史静が後を継いだ。小説『三国志演義』では建安7年(202年)、倉亭の戦いで袁尚と一騎打ちの末、討ち取られる設定になっている。

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