司馬師子元しばししげん

司馬師子元しばししげん

司馬師、字を子元といい、河内郡温県の出身である。父は司馬懿、弟は司馬昭、司馬幹、母は張春華である。234年、司馬師は夏侯尚の娘の夏侯徽を妻に迎えたが、父の司馬懿に殺された。司馬懿の野心に気づいたのが原因で殺害されたとされている。司馬師は次いで曹丕の寵臣呉質の娘を娶ったが、呉質が単家の出身ということで別れ、泰山の名族洋ドウの娘を妻に迎えた。249年、司馬懿は曹爽を排除するクーデターを計画した。この時、司馬懿は秘策を前もって司馬師と練り上げ、司馬昭には決行前夜に知らせるだけだった。人に命じて前夜の二人の様子を探らせると、司馬昭は寝つけないようだったが、司馬昭はぐっすり眠り込んでいた。当日の朝、以前からひそかに養っていた死士三千がこつ然と姿を現して、司馬師に加勢した。252年8月、司馬懿が逝去すると、朝議によって司馬師は撫軍大将軍・録尚書事に任ぜられて輔政の任についた。呉に遠征をした征南大将軍王昶、征東将軍胡遵、鎮南将軍毌丘倹、鎮東将軍諸葛誕らが、呉の諸葛恪に大敗したが、司馬師はその敗戦の罪を一身に被り、監軍として出陣した司馬昭の爵を削っただけで、諸将を咎めなかった。この措置に人心は司馬師に帰した。253年、大将軍・侍中・持節・都督中外諸軍事に昇り、政治・軍事の一切を取り仕切る権限を握った。254年2月、中書令李豊は、太常夏侯玄を大将軍とし、司馬師に替えて当たらせようとした。計画は露見され、李豊と夏侯玄らは皆殺しとなった。司馬師は魏帝曹芳も関与していると難癖をつけ、郭太后に迫って廃立させた。群臣はそのまま従い、高貴郷公曹髦が擁立された。255年、この廃立に反発した毌丘倹と揚州刺史文欽が淮南で挙兵した。司馬師は目の上に出来た悪性の腫瘍を切開したばかりだったが、王粛・鄧艾のたっての勧めによって出陣した。汝陽に駐屯した司馬師は鄧艾に命じて二万人を楽嘉に進ませ、わざと弱体をみせて敵をおびき出した。はたして文欽は計にひっかかり夜襲しようと出陣した。司馬師は馬に枚をふくませ声をださないようにし、夜半ひそかに楽嘉で文欽軍と遭遇した。文欽の子の文鴦は十八歳ではあったが、全軍随一の勇将であった。父に「まだ勝敗は決していません。城に登って、鼓を打ち騒げば、魏軍を撃ち破れます」と言った。文欽と文鴦は軍を二つに分けて夜襲を行う計画を立て、文鴦が魏軍を攻めて三度騒いだが、父は応ぜず、文鴦は退いて父とともに戦線を東に下げた。司馬師は文欽が逃げたことを知ると、精兵でもって追撃を開始させた。諸将は「文欽は古強者であり、息子の鴦は若く気鋭です。軍を引き、篭城しても、未だに損害を被っていないなら、彼らが敗走することはありません」と言ったが、司馬師は「一度鼓すれば士気が生まれ、二度目は衰え、三度目で尽きる。文鴦は三度鼓したのに、文欽は応じなかった。その勢いは既に屈している。敗走しないなら、何を待っているのだ?」と、追撃を緩めなかった。文欽が更に逃げようとしたとき、文鴦は「司馬師に先んずることができず、我が軍の勢いを折ってしまった。このまま引き下がることはできません」と言い、十数騎で魏軍に斬り込み、魏軍の陣を陥落させ、向かうところ全て薙ぎ払い引き上げていった。司馬師は、司馬璉に騎兵八千と楽綝らに歩兵を率いさせて文欽を追撃させ、沙陽で次々と文欽の陣を落とし、大いに撃ち破った。文欽父子と部下は項まで落ち延びた。一方、文欽らが楽嘉を攻めたのを知った王基は、進軍して項に迫った。その後、毌丘倹は文欽の敗走を聞くと、配下を棄て夜陰にまぎれて淮南へ逃亡したが、捕らえられて斬首され、その首は都城にさらされた。また文欽父子は呉まで逃れ、数万の兵とともに呉に亡命した。諸葛誕は寿春を制圧した。この混乱に乗じて呉の孫峻らが侵攻してきたが、諸葛誕は蒋班・鄧艾・諸葛緒らを派遣して、孫峻らを撃破し留賛を斬った。けっきょく淮南は平定されたが、司馬師の病状が悪化し、閏正月二十八日に死去した。享年48歳。毌丘倹の死後7日のことだった。文欽の息子・文鴦が夜襲をしかけ司馬師の本営に迫ると聞いて、驚きのあまりに目が飛び出した。司馬師はふとんを噛んで痛みをこらえ、ついにはこれを噛み破ってしまった。司馬師に男子が無く、司馬昭の次男・攸を養子としていた。司馬師の死後、家系を継ぐのは司馬攸となるところだが、司馬昭の長子の炎が司馬攸の兄であることを考慮し、後継者として司馬昭を選んだ。上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。若いときから評判が高く、夏侯玄や何晏らと名声を等しくした。何晏は常々、司馬師を称えて「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たすことができる」と言っていた。

反応