吉原功

吉原功

吉原 功(よしはら いさお、1930年3月2日 – 1985年6月10日)は、日本のレスリング選手、プロレスラー、実業家。元国際プロレス社長。岡山県出身。

早稲田大学レスリング部出身。1952年に東洋製鋼に入社し、同年に開催された東北3県国体を目指して日本橋浪花町にあった日本プロレス・センターに通い詰める。1953年に力道山に口説かれて日本プロレスに入門してプロレスラーとして活動した。1956年10月24日には新設された日本ライトヘビー級王座の決定トーナメント決勝戦で芳の里淳三と戦うものの0-2で敗退。後に芳の里の王座返上を受けて1960年10月19日に行われた決定戦で大坪清隆を破り第2代日本ライトヘビー級王者となる。ただし、芳の里も吉原もほとんど防衛戦をやっていない(当時日本人同士の対戦は今ほど一般的でなかった。またマッチメイクも「力道山VS大物外国人」が中心だった)ので王者としての印象は薄い。現役時代の十八番技はコブラツイスト(アバラ折り)であった。

後にフロントに転じて取締役営業部長となるが、力道山の死後の日本プロレスの経営を巡り遠藤幸吉らと対立し1966年10月に同社を退社リキパレスが多重に抵当を設定されていたためそれを買い取るためにスポンサーを連れてきたが、遠藤らは会社を吉原に牛耳られるのではないかと危惧し、結局買収は失敗に終わった。ちょうどその頃日本に戻っていたヒロ・マツダをエースに立て国際プロレスを設立した。以後の活動については国際プロレスの項を参照。TBSと東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された国際プロレス中継(『TWWAプロレス中継』と『国際プロレスアワー』)では解説者として放送席にも座り、辛口の評論で知られていた。

元々レスリング出身という経歴のため、日本レスリング協会、中でも第3代会長の八田一朗とのつながりがあり、八田の人脈を通じて国際プロレスで初来日した選手も多く、ビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)など、後にブレイクした選手も少なくない。ロビンソン、ロシモフ、ジョージ・ゴーディエンコ、ホースト・ホフマンといったヨーロッパの強豪が数多く来日し、日本プロレスのアメリカルートとは一味違ったレスリングをファンに提供したのも大きな功績である。AWAの帝王であったバーン・ガニアを招聘するなど、日本プロレスとは違いアプローチで団体の色を見せた。吉原はアメリカンスタイルではなくヨーロッパスタイルのプロレスを目指していたとされており、その背景の1つとしてヨーロッパには豊富な人材があり安いギャラで参戦させることができるというものがあった

『プロレス&ボクシング』1962年4月号増刊より
プロフィール
リングネーム 吉原 功
本名 吉田 功
ニックネーム 早大の星
身長 172cm
体重 95kg
誕生日 (1930-03-02) 1930年3月2日
死亡日 (1985-06-10) 1985年6月10日(55歳没)
出身地 日本
岡山県
スポーツ歴 レスリング
デビュー 1953年
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