向朗巨達しょうろうきょたつ

向朗巨達しょうろうきょたつ

向朗、字を巨達といい、襄陽郡宜城県の人である。子は向条、甥に向寵がいる。荊州の牧劉表は向朗を臨沮の長に任命した。劉表が亡くなると、劉備に帰服した。劉備は江南を平定すると、向朗に荊州南部四県の軍事と民事を治めさせた。蜀が平定されたのち、向朗を巴西太守に任じ、しばらくして牂牁太守に転任させ、また房陵太守にかわらせた。劉禅が即位すると、歩兵校尉となり、王連が死去すると代わって丞相長史を担当した。丞相諸葛亮が南征すると、向朗は後に残って丞相府の仕事を取り仕切った。227年、諸葛亮に随行して漢中に赴いた。その後、街亭において敗戦して、その責任である馬謖は牢獄にいた。向朗は平素より馬謖と仲が良かったので、馬謖が牢獄より逃亡した際、事情を知りながら黙認した。諸葛亮はこれを恨んで免官して帰還させた。数年後、復権して光禄勲となった。諸葛亮の死後、左将軍に移ったが、過去の功績をとりあげられて、顕明亭侯に封じられ、特進の位(三公に次ぐ特別待遇)を授かった。247年、向朗は死去した。享年不明。昔、向朗は若いころ、広く学問を修めたが、学者としてふだんの品行を養えることをせず、実務の能力によって評判を得た。長史をやめさせられてから後は、三十年近くのんびりと何事もなく暮らし、それからあらためて典籍の研究に専念し、孜々として倦怠することはなかった。『襄陽記』によると、向朗は若いころ司馬徽に師事し、徐庶、韓嵩、ホウ統といずれも親しかったとしている。八十歳を越えても、なお手ずから書物の校勘をし、誤謬を訂正し、書物を収集することにかけては当時最大であった。門戸を開放して賓客を接待し、後進を教え導いたが、ただ古義を説くのみで、時事には言及せず、そのことによって評価を受けた。上は政治の担当者より下は子供にいたるまで、みな彼を敬愛し尊重した。馬謖逃亡については、馬謖伝には記載がされてない。しかし、本伝から推測すると、馬謖は街亭の敗戦での責任で処刑されたのではなく、脱獄による法律に定められた処刑ではないかと、考えられる。裴松之の注釈によると、「向朗が馬謖の件で長史を免官になったとすれば、それは228年内のことである。向朗が247年に死ぬまで、ちょうど二十年経過(評価欄参照)しているだけであり、誤字である」と間違いではないかと指摘している。

反応