呂凱季平りょがいきへい

呂凱季平りょがいきへい

呂凱、字を季平といい、永昌郡不韋県の人である。秦の始皇帝時代の呂不韋の子孫である。子は呂祥がいる。郡に仕えて五官縁功曹となった。そのころ、雍ガイらは劉備が永安で崩御したと聞くと、不遜・狡猾な態度をいよいよ募らせた。都護の李厳が六枚に及ぶ手紙を送り、利害を説いたのに対して、雍ガイはただ一枚だけの返事を出して、「遠方の人間は恐懼と困惑のあまり、誰に帰服してよいかわからないのです」と述べた。雍ガイはまた呉に降伏し、呉は遥かに雍ガイを永昌太守に任命した。永昌郡は益州郡の西方に位置していたが、道路が塞がり、蜀との連絡が絶ち切られていたうえに、郡の太守の張裔を捕虜にして呉に送り、交替させられたところだった。呂凱と府丞の蜀郡の王伉は、官民を統率し激励して、国境を閉鎖し雍ガイの侵攻を防いだ。雍ガイは何度も永昌に檄文を送り、いろいろ述べた。呂凱は檄文に答え、説得したが応じてこなかった。丞相諸葛亮が雍ガイ討伐に南方に出発し、すでに途上にあるとき、雍ガイは高定の部下によって殺害された。諸葛亮は南へ到着すると、上表して、呂凱を雲南太守に任じ、陽遷亭侯に封じた。丞相の諸葛亮が逝去すると、ふたたび蛮族は反乱して、呂凱は殺害された。享年不明。南方において、呂凱は威光と恩愛は郡内に聞こえわたっており、郡の人々の信頼を得ていた。『蜀世譜』によると、「昔、秦は呂不韋の弟子や一族を蜀漢に移住させた。漢の武帝時代、西南の蛮族を教化して、郡県を置き、呂氏を移住させてその地の民とした。それで不韋県という」のである。小説『三国志演義』では、孔明の南蛮行の際に「平蛮指掌図」を献上した。

反応