呉壱子遠ごいつしえん

呉壱子遠ごいつしえん

呉壱、字を子遠といい、陳留郡の人である。父は呉夙、妹は劉備の后、族弟は呉班、子は早世したため不明である。孫に呉喬がいる。劉焉に随行して蜀に入った。劉璋時代、中郎将となり、軍兵を率いて劉備の防御に当たったが、降伏した。劉備は益州を平定すると、呉壱を護軍・討逆将軍に任じ、呉壱の妹を入れて夫人とした。221年、関中都督となった。北伐にあたって諸将は呉壱か魏延を先鋒とするように主張したが、諸葛亮は馬謖を任用し、馬謖の独断専行のため敗戦を喫した。230年、魏延とともに南安の国境に侵入して、魏の将費瑶を撃破し、亭侯より高陽亭侯に爵位をあげられ、左将軍に昇進した。234年、丞相諸葛亮が亡くなると、呉壱は督漢中・車騎将軍・仮節となって、雍州刺史を兼任し、済陽侯に爵位をあげられた。237年、呉壱は死去し、子が早世したため、孫の呉喬が跡を継いだ。楊戯の『季漢輔臣賛』に名が登場し、伝がたてられていない。しかし、その評価によると、「呉壱は骨っぽい男で、博愛の心をもち、弱軍をひきいて強敵を制圧し、危機におちいることはなかった」と称えている。また、劉備の外戚でありながら、当時の位からして名声と戦功があったにも関わらず、本伝が作られていない。『季漢輔臣賛』では、事跡が伝わっていないため、伝が作られなかったとしている。『華陽国志』には「呉懿」という別の名があるが、正史では呉壱で表記されている。司馬懿と同じ名であることから「懿」を避けている可能性が高い。

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