周泰幼平しゅうたいようへい

周泰幼平しゅうたいようへい

周泰、字を幼平といい、九江郡の下蔡の人である。子は周邵、周承がいる。蒋欽とともに孫策の配下に入り、その側近となった。周泰は、つつしみ深く孫策に仕え、しばしば戦いの中で手柄を立てた。孫策が会稽郡に入ると、周泰は別部司馬に任じ、兵士をあずけた。孫権は、彼の人となりを愛して、孫策に願って自分の配下に付けてもらった。孫策が六県の山越の不服従民たちを討伐したとき、孫権は宣城に兵を留めて、兵士たちに命じておのおの守りを固めさせた。兵士数が千人もみたなかったので、たかをくくって防護柵を作らずにいたところ、山越の不服従民たち数千人が急に押し寄せて来た。孫権がやっと馬に乗ったときには、四方敵が身近に迫り、誰もが慌てふためくばかりであった。その中で周泰だけは、勇力を奮いおこして、身をもって孫権を守り、その大胆さは人に倍するものであった。側近たちも、周泰の働きのあとにつづいて、みな戦いに加わることができた。敵方がやっとちりぢりになると、周泰は身に十二の傷を被って昏倒し、しばらくの間は人事不省であった。このとき周泰の働きがなかったら、孫権の生命も危うかったのである。孫策は、周泰に深く感謝し、彼を春穀県の長に任じた。のちに皖の攻撃に加わり、さらに江夏の討伐を行って、その帰還の途上、豫章にたちよると、そこで今度は宜春県の長に任ぜられた。いつの場合も、その任地の租税を扶持として与えられた。周泰は孫権の黄祖討伐に従って手柄を立てた。のちに、周瑜や程普とともに曹操を赤壁で撃退し、南郡に留まった曹仁を攻めた。荊州が平定されると、周泰は兵を率いて岑に駐屯した。曹操が濡須へ軍を進めてくると、周泰は、ふたたび軍を進めてそれに攻撃をかけ、曹操が退却したあと、そのまま留まって濡須の督となり、平虜将軍の称号を受けた。この当時、朱然や徐盛たちはみな彼の指揮下に入っていたのであるが、誰も彼の指示に従おうとはしなかった。孫権は、そのためわざわざ濡須の砦まで閲兵に出かけ、そこで部将たちを集めると、盛大な宴会を開いた。孫権はみずから酒の酌をしてまわり、周泰の前までくると、周泰に命じて上衣を脱がせ、孫権はその傷あとを指しながら、そのようにしてその傷を受けたのかと尋ね、周泰は、ひとつひとつ昔の戦いを思いおこしつつ、答えた。それが終わると、上衣を着なおさせ、宴は終夜つづいた。その次の日、使者を遣わして周泰に御蓋(主君が用いる儀仗用の日傘)を授けた。このことがあってから、徐盛たちは周泰の指揮に従うようになった。のちに孫権は、関羽を破ると、さらに軍を進めて蜀の攻略をもくろみ、周泰を漢中太守、奮威将軍に任じ、陵陽侯に封じた。222年から229年の間に、周泰は死去した。享年不明。小説『三国志演義』では、蒋欽と共に江賊をしていたが、孫堅の遺児が挙兵したのを聞きつけ改心して孫策の陣営に駆けつけ、その後の孫策の江東征服戦の各所で活躍した。宣城で重傷を負ったときは華佗が周泰の傷を治療したことになっている。赤壁の戦いの緒戦では韓当と共に先陣を務め、元袁紹の部下の張南を斬っている。劉備が孫夫人との婚礼のために呉を訪れたときは、張昭のすすめで孫権より追撃の任務を蒋欽と共に与えられ、場合によっては夫婦ともども切り捨ててもよいという厳命を受けている。後に孫夫人を阿斗(劉禅)と共に呉に連れ出そうとした周善という人物がいる。関羽の報復として劉備が攻め寄せた夷陵の戦いでは弟の周平(創作人物)が関興に討ち取られる。後に陸遜が指揮を執るようになると、古参の将の一人として韓当と共に不快感を示し、陸遜に叱責されている。陸遜の計略で呉が大勝すると、敗走する蜀軍を諸将と共に追撃し、周泰は武陵蛮の将で先に甘寧を戦死させていた沙摩柯を一騎打ちで討ち取っている。

反応