和知鷹二
和知 鷹二(わち たかじ、1893年2月1日 – 1978年10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。同年8月、歩兵第63連隊大隊長に就任し、参謀本部員、関東軍参謀、広東駐在武官などを経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級。1934年(昭和9年)12月、参謀本部員となり、支那駐屯軍司令部付(太原機関長)を経て、1936年(昭和11年)8月、支那駐屯軍参謀となり日中戦争に出征。1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第44連隊長に発令された。
1938年3月、台湾軍司令部付(特務工作)、参謀本部付(特務工作)。日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蒋介石のライバルと目される要人たちの懐柔を図り、大本営直轄の土肥原機関の指揮下に、北京では大迫通貞大佐が「竹工作」を、福建省に対しては台湾を拠点に山本募大佐が「菊工作」を、重慶に対しては参謀本部の影佐禎昭大佐が「梅工作」を、上海では和知が「蘭工作」を行った。その後、第21軍司令部付兼中支那派遣軍司令部付、支那派遣軍総司令部付を経て、1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級。同年11月、参謀本部付となり、台湾軍参謀長、兼台湾軍研究部長として太平洋戦争を迎えた。
生誕 |
1893年(明治26年)2月1日 日本 広島県 |
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死没 | 1978年(昭和53年)10月30日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1914年(大正3年) – 1945年(昭和20年) |
最終階級 | 陸軍中将 |
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