増山雪斎

増山雪斎

江戸時代中期から後期の大名、伊勢国長島藩の5代藩主。「雪斎」は号で、多くの書画を残した文化大名として名高い。名は正賢(まさかた)、字は君選、号はほかに巣丘山人など。長島藩4代藩主・増山正贇(まさよし)の長男として江戸の藩邸にて生まれる。父の死後、5代藩主となり伊勢長島2万石を相続した。その後、大坂御城御加番などを歴任。政治面での手腕は凡庸だったようだが、文化面においては一流の腕前を持ち、山水画や花鳥画など多くの書画を残し、囲碁や煎茶にも精通していた。また、江戸の文人・大田南畝や大坂の博物家・木村蒹葭堂(けんかどう)など多くの文人と交流を持ち、その庇護者となった。48歳で隠居すると江戸の巣鴨にある下屋敷に住み、作画と作詩に没頭する日々を送った。代表作に晩年の虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』をはじめ『孔雀図』『花鳥図』など。『虫豸帖』は春夏秋冬の4帖からなり、カブトムシやセミなどが表と裏から精密に描かれ本草学的にも貴重な資料となっている。雪斎は虫を写生したあと「これわが友なり」とし小箱に大切に保存していたという。その志を受け継ぎ、雪斎の没後、友人知人らによって江戸下谷中の勧善院境内に虫塚が建立された(現在は寛永寺に移転)。墓所は東京都中野区にある蓮華寺。

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