夏侯栄幼権かこうえいようけん

夏侯栄幼権かこうえいようけん

夏侯栄、字を幼権という。父は夏侯淵、兄は夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威、弟は夏侯恵・夏侯和らがいる。夏侯栄は父の夏侯淵につき従って漢中に進んだ。219年、夏侯淵が敗北を喫すると、側近の者はまだ十三歳の夏侯栄を抱えて逃げようとしたが、彼は承知せず、「主君や親が危うい目に遭っているのに、どうして死を逃れようか」と言って剣を揮って突進して戦死した。将軍の多くは幼い子まで連れて出陣した。『典論』によると、曹丕は父曹操に連れられて、僅か八歳で張繍征伐に参加している。ある夜、張繍に奇襲されて、兄の曹昂と従兄弟の曹安民は戦死したが、曹丕は既に会得していた騎射の技で無事に脱出した。幼い子を同行するのは、なまじ国許に残しておくほうが危険だった。いつ叛乱が起きて我が子が人質になって殺されるかわからないからである。幼いころから聡明で、七歳でよく文を綴り、一日に書物を千字を暗誦し、目を通せばたちまち憶えた。曹丕が太子のとき、評判を聞いて夏侯栄を招いたことがあった。曹丕のもとには百余人の賓客が集まり、一人一人が夏侯栄に名刺「爵里刺」を差し出した。夏侯栄はちらりと見ただけだったが、その後に一人一人と言葉を交わした時、全員の顔と名を憶えていたことがわかった。曹丕は才能を高く評価した。

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